急進派の連衡
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「急進派」という言葉は、南北戦争前の反奴隷制度運動の中で頻繁に使われており、奴隷制度廃止運動家のみならず、奴隷権力に強く対抗した北部政治家にも使われた。多くの者、おそらく大多数は元ホイッグ党員であり、1860年アメリカ合衆国大統領選挙の有力候補者で、リンカーン政権では国務長官を務めたウィリアム・スワード、ペンシルベニア州選出アメリカ合衆国下院議員のタデウス・スティーブンス、急進的新聞の先鋒である「ニューヨーク・トリビューン」の編集者ホレス・グリーリーなどだった。2つの方向への動きがあった。戦前の急進派の幾らか(スワードなど)は戦中に保守的になり、戦前の中道派の幾らかは急進派になった。戦中の急進派の幾らかは戦前に保守派民主党員であり、奴隷制度擁護の姿勢を採っていた者が多かった。その中にはイリノイ州のジョン・A・ローガン、オハイオ州のエドウィン・スタントン、マサチューセッツ州のベンジャミン・フランクリン・バトラー、イリノイ州のユリシーズ・グラント、副大統領のアンドリュー・ジョンソンがいた。ジョンソンは大統領になった後で急進派と訣別した。 急進派には正式に組織があったわけではなく、その集団内外での運動があった。その中で最も成功し体系的な指導者になったのが、ペンシルベニア州選出アメリカ合衆国下院議員のタデウス・スティーブンスだった。民主党は急進派に強く抵抗したが、概して弱い少数派であり、1874年の選挙で下院を支配するようになって初めて力を得た。中道派と保守派の共和党員は通常急進派に反対したが、うまく組織化されてはいなかった。リンカーンは急進派、保守派、中道派共和党員およびタカ派民主党員を含めた多派閥連衡を作ろうとした。急進派に反対されることが多かったが、決して彼等を排斥しようとはしなかった。アンドリュー・ジョンソンは、1865年に大統領になった時は急進派と考えられたが、間もなくその対抗派の指導者となった。しかし、政治家としては無能であり、纏まりのある支持者のネットワークを作れなかった。1872年、元急進派が多数を占めるリベラル派共和党員が独自の大統領選挙運動を運営し、その候補者グリーリーに民主党の支持も得た。彼等はグラントと急進派が腐敗しており、レコンストラクション政策を南部にあまりに長く強制してきたと主張した。彼等は選挙で大敗し、運動としては崩壊した。 急進派は、奴隷権力、アメリカ連合国の破壊、奴隷制度の根絶、解放奴隷の権利に関わらない問題については、政界地図の全ての領域にある立場を採った。例えば、元ホイッグ党員は概して高関税を支持し、元自民党員は概してそれらに反対した。ある者は硬貨とインフレ無しを支持し、ある者は紙幣とインフレを支持した。1930年代に共有された議論では、急進派が主に北部の事業利権を高めたいという身勝手な動機に動かされたというものであり、半世紀の間も歴史家から顧みられることが無くなっていた。急進派は外交政策については概して穏健であり、はっきりした姿勢を採らなかった。
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