急進的進歩派を懸念
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 21:11 UTC 版)
「エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)」の記事における「急進的進歩派を懸念」の解説
1641年2月には国王側近ストラフォード伯に対する弾劾裁判が開始された。ハイドも「ストラフォードを告発する文書作成委員会」の委員となった。ハイドにとってストラフォード伯は北部評議会(英語版)の権限を拡大してその地域を「専制的権力の海に沈めた」張本人であるため、容赦なく追及した。 だが、同時にこの頃からハイドは急進的進歩派に不安を抱くようになった。ストラフォード伯弾劾の最中、何千人ものロンドン市民がウェストミンスターに押しかけてきてストラフォード伯処刑を求める示威行動を起こし、処刑への同意をためらう国王や貴族院議員を罵倒していたが、ハイドはそれを見て嫌悪した。後世ハイドはこの時の市民の示威行動を「前代未聞の不敬」「反逆的な暴動」と批判している。 議会は5月12日にストラフォード伯を処刑するとともに、1640年から1641年にかけて議会権限を回復・強化する法案を次々と可決させた。議会の許可なき課税として批判されていた船舶税(英語版)は不法と決議され、議会の同意なく国王が関税をかけることを禁じるトン税・ポンド税法(英語版)も可決された。3年議会法(英語版)により国王の解散詔書がなくても議会が3年以上休会したら解散総選挙が行われる旨も定められた。星室庁裁判所、北部評議会、高等宗務官裁判所など国王専制政治の象徴となっていた大権裁判所も廃止された。国王もこれらの改革に同意している。 親政前に機能していた政治の慣行(国王と議会の均衡)の復活を目指すハイドやフォークランド子爵にとっては改革はこれで終了であって、国王と議会の相互信頼の回復が今後の課題だった。ところがジョン・ピムら急進的進歩派の議員にとっては改革はまだ終わっておらず、国王大権の制限が次なる課題だった。そして11月には国王が持つ枢密顧問官をはじめとする官吏任免権を議会の統制下に置く内容の『議会の大諫奏』を提案した。ハイドたち穏健派は国王大権の侵害としてこれに強く反対した。また急進派は大諫奏を議会外の大衆に公表するつもりであったが、ハイド達は既存の社会秩序が崩れるとして議会外大衆への働きかけに反対した。この大諫奏については2週間ほど議会内で議論が行われたが、結局11月23日に僅差で可決されている。これにより議会内の穏健派と急進派の分裂が決定的となった。
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