日本への仏教伝来と戒律
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「日本仏教の戒律史」の記事における「日本への仏教伝来と戒律」の解説
日本における戒律の最古の記録は、『日本書紀』の崇峻天皇元年(588年)である。それによれば如蔵尼らは戒律を学ぶために百済に渡り、受戒して2年後に帰国した。ただし善信尼らは年齢的に正式に受戒したとは考えられていない。 『日本書紀』の推古天皇32年(624年)には、ある僧が祖父を斧で殴った事件について記されている。この時、観勒が「この国の僧尼はいまだ法律(戒律)に習熟していない」と訴え許されたと記されているが、これは当時の僧尼が戒律的に無秩序であった様子を表すと考えられる。この時に、のちの僧綱制度につながる僧侶の管理機構が確立されたと考えられるが、戒律の面からどこまで指導がされていたかは明らかではない。また大化元年(645年)には、孝徳天皇が仏法興隆を勅し十師を任命したと記されるが、これは唐の十大徳に倣ったもので、授戒を行う十師とは別であると考えられる。 7世紀中頃になると遣唐使に多くの僧が同行するようになる。白雉4年(653年)に入唐した僧の1人である道光は、道宣の『行事鈔』を将来し、『依四分律抄撰録文』を著して律師の地位に就いた。この頃から『四分律』による戒律研究が行われたものと考えられている。また7世紀後半になると浄行者や蔬食(肉食をしない)持戒を護持する者の出家が許される記録がみられ、戒律に関心が寄せられるようになっていたと考えられる。 8世紀に至って中国にならい律令制が導入されると、僧尼令が編まれる。僧尼令は唐の道僧格に基づきつつ国内の事情に合わせて改変されたと考えられる。具体的な内容として『四分律』などの影響がみられるが、全体としては僧尼の自主自立を認めず政治的な統制下に置こうとする目的が明白とされる。これについて石田瑞麿は、僧尼自身が戒律的に無統制無規範であったことの現れとしている。こうした中で行われていた受戒は、三聚戒通受で、例外的ではあるが自誓受戒も行われたと考えられる。
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