日本へのリン鉱石の輸送再開と中断
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 08:53 UTC 版)
「北大東島のリン鉱山」の記事における「日本へのリン鉱石の輸送再開と中断」の解説
アメリカ軍による空襲や艦砲射撃によって、鉱山設備は北大東島出張所、宿舎、リン鉱石貯鉱場、倉庫などが大破し、ディーゼル発電所などが中破、小破する被害を受けた。また戦時下の各設備の酷使によっても鉱山設備は損傷していた。 終戦後、1945年10月に米軍が来島し、戦時中に建設された軍事施設の破壊、武器や弾薬の処分が行われた。その後10月から11月かけて駐屯していた北大東島守備隊は引き揚げた。終戦時、島内には社員、雇員26名、現業員(傭員)97名、鉱夫39名が残っていた。終戦直後、外部からの生活必需品の供給は途絶えていて、サツマイモの栽培と漁業で在島者たちは食いつないでいた。鉱山も農業も先が見えない中で八丈島系と沖縄系の島民間の対立が激化するなど、島内は不穏な空気に包まれていた。 大破した設備はあるものの、大東諸島に対する米軍の攻撃は飛行場が建設されていた南大東島が主であり、北大東島の被害は比較的軽かった。北大東島出張所では鉱山関連設備の修理が可能であると判断し、南北大東島にある資材を活用して設備を修復し、不足している労働力に関しては島内のサトウキビ農家や南大東島からの応援を受けて賄い、月に3000トンから4000トンのリン鉱石出荷が可能であり、早急に鉱山の再開を行うよう東京の本社に要望した。 日糖興業本社にとっても、終戦後の著しい食糧不足に対処するため肥料の確保が重要課題となっている状況下、北大東島のリン鉱石の入手は至上命題であった。日糖興業は農林省に対して北大東島のリン鉱石積み取り計画案を提出した。食糧難への対応に追われていた農林省にとって日糖興業の計画案は大賛成であったものの、連合国軍最高司令官総司令部の許可を得ねばならなかった。難航が予想されていた交渉であったが、1946年1月24日に許可が下りた。 1946年1月26日、農林大臣の代理らに見送られてリン鉱石積み込み船は芝浦ふ頭を出港した。途中南北両大東島に向けての米や生活必需品を門司港、鹿児島港で積み込み、2月6日に北大東島に到着し、リン鉱石を積み込んだ上、2月20日に清水港に戻った。リン鉱石の積み込み再開によって島内には活気が戻ってきた。その後もリン鉱石の積み込みは継続され、1946年6月までに13222トンのリン鉱石を日本本土へと輸送した。
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