日本へのねじの伝来
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 05:09 UTC 版)
日本には1543年、種子島へ漂着したポルトガル人が所有していた火縄銃とともにねじが伝来したとされている。種子島領主・種子島時堯は2挺の火縄銃を購入し、うち1挺を刀鍛冶八板金兵衛に与えて銃の模造を命じている。この時、金兵衛は自分の娘若狭をポルトガル人に嫁がせてまで、ねじの作成法を習得したとする伝説さえ残っている。火縄銃の銃身の後ろ側(銃底)を塞ぐ尾栓に使われていたおねじとめねじが日本人が初めて見たねじとされている。金兵衛にとって「おねじ」の製造は比較的簡単だったものの「めねじ」の製造は難しく、おねじを雄型とする熱間鍛造法で製作したと推定されている。 日本を含めて東洋では、ねじ構造自体を独自に発見・発明することができなかった。村松貞次郎は『無ねじ文化史』で江戸の工業製品にはねじの使用例はなく、江戸幕府の江戸時代とは「ねじの無い文化」の時代であるとした。結局、ねじ製作のための優れた工作機械や工具に恵まれず、ねじを作ること自体が「大変困難な仕事である」ということがその理由である。和時計も特殊なねじがわずかにあるだけで、ほとんどが楔で作られている。ねじがほとんど無いため、日本ではドアが発達しなかった。火縄銃にはねじが必須であったが、江戸時代の火縄銃のほとんどは新たに作るのではなく、以前の火縄銃の銃口を広げたりして作り替えていたという。 日本では、1857年にモーズリー由来でホイットワースが改良したねじ切り用旋盤が輸入された。1860年、遣米使節として渡米した小栗忠順は、ワシントン海軍工廠を見学後、西洋文明の原動力は「精密なねじを量産する能力である」と考え、1本のねじを持ち帰ったという。
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