ロシア革命時の日本への亡命者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 03:02 UTC 版)
「在日ロシア人」の記事における「ロシア革命時の日本への亡命者」の解説
日本に亡命した旧ロシア帝国国民も多くいた。その内訳には、民族的なロシア人の他にかなり多くの非ロシア人、つまりポーランド人やウクライナ人が含まれていた。しかし、非ロシア人の多くも日本において通用しがたいウクライナ語やポーランド語を用いる代わりに、それよりは通じやすいロシア語を用いたことから、日本では彼らは「ロシア人」であると誤解された。1918年に日本に来たこれら亡命者の数が1年間だけでも7,251人(日本の外事警察の記録)となっている。また、日本に亡命した白系ロシア人の中には、しばらくしてからオーストラリアや米国などに再移住した人も存在する[要出典]。なお、ロシア帝国最後の在日代理大使を務めていたアブリコソフ (ru:) は1925年の日ソ国交回復後も日本に留まり、第二次世界大戦の終結まで白系ロシア人の取りまとめ役として日本政府との交渉に当たっていた。 創生期のプロ野球で300勝を記録したスタルヒン(日本名:須田博。日本国籍帰化申請は受理されず生涯無国籍)、神戸の老舗洋菓子店「モロゾフ」の創業に深く関与したフョドル・ドミトリエヴィチ・モロゾフとヴァレンティン・フョドロヴィチ・モロゾフの親子(※モロゾフ家は日本人の共同経営者と裁判になり、屈辱的な条件を受け入れてモロゾフを受け渡さなければならなくなったため、「コスモポリタン製菓」を後に創業した。)、同じく神戸の洋菓子メーカー「ゴンチャロフ」(チョコレート菓子中心。ウイスキーボンボンで有名)創業者マカロフ・ゴンチャロフも白系ロシア人である。その他、函館と神戸を中心に、日本で活躍した白系ロシア人は数多い。 これらの亡命者達の中には、正教会信者として日本正教会に通っていた者も少なくなく、その子孫は現在もなお神戸ハリストス正教会やニコライ堂など、日本の幾つかの正教会内において、一定の亡命ロシア人系のコミュニティを形成している。
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