西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行の意味・解説 

西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 09:07 UTC 版)

第一次世界大戦」の記事における「西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行」の解説

詳細は「西部戦線 (第一次世界大戦)」を参照 ドイツ陸軍西部国境への集結がまだ続いている最中1914年8月5日ドイツ第10軍団英語版)はベルギーリエージュ要塞への攻撃開始したリエージュの戦い)。リエージュの町は7日陥落したが、その周りを囲むように建造されリエージュ12要塞英語版)はすぐには陥落しなかった。ドイツディッケ・ベルタという重砲投入して要塞落とし16日リエージュを完全に征服した戦闘特筆値する事柄は、15日砲弾ロンサン砦(英語版)の弾薬庫直撃して砦ごと破壊したことがある難攻不落とされたリエージュ要塞群があっさりと陥落したため、フランス戦闘計画方針転換余儀なくされた。 第一次世界大戦において、一般市民への攻撃初め行われたのは8月2日リエージュ近くヴィゼダレム英語版)、バティスフランス語版)で起きたことだった。その後の数週間ドイツ軍ベルギーフランス一般市民にしばしば暴力ふるったが、その理由フラン=ティルール(英語版)によるドイツ軍へのゲリラ攻撃だった。ドイツ軍初めベルギー民衆大量処刑したのは8月5日のことで、最も重い戦争犯罪についてはディナン英語版)、タミーヌ(フランス語版)、アンデンヌ(英語版)、アールスコート起きたこのような報復攻撃により、1914年8月から10月までの間に民間人6,500人が犠牲者になり、またレーヴェン破壊ドイツ語版)でドイツ国際世論非難受けた。これらの戦争犯罪イギリスプロパガンダ真偽まじりで宣伝され、「ベルギー強奪英語版)」という語が生まれたドイツ軍シュリーフェン・プラン実施するために迂回している中、フランス側ではプラン17英語版)を準備していた。プラン17ではドイツの計画違いロレーヌでの中央突破戦略としていた。実際大規模攻撃の前、ミュルーズへの攻撃予定していた。フランス軍指揮官ジョゼフ・ジョフルドイツ軍南部釘付けにすることと、フランス国民戦意高揚目的として、普仏戦争ドイツとなっていたアルザス=ロレーヌ奪還掲げたフランス軍住民一部歓迎される中、8月7日アルザス工業地帯2番目の大都市であるミュルーズ占領して一時的に戦意高揚成功したが、9日にはドイツ軍奪還された。その後ドイツ軍8月24日までにドラー川英語版沿岸ヴォージュ山脈一部除いて奪還以降終戦まで維持したフランス軍の攻撃指揮したルイ・ボノー(フランス語版)はジョフル解任された。 ジョフル当初プラン17遂行集中してフランス兵170を5個軍に編成ドイツによるベルギー攻撃顧みなかった。だがドイツ軍行軍を完全に無視することはさすがにできなかったため、シャルル・ランレザック(英語版率いフランス第5軍英語版)を北西部派遣した。ちょうどフランス上陸したジョン・フレンチ率いイギリス海外派遣軍モブージュの北でフランス軍合流したフランス攻勢8月14日始まり、オーギュスタン・デュバイ(英語版率いフランス第1軍英語版)とエドゥアール・ド・クリエール・ド・カステルノー(英語版率いフランス第2軍英語版)は国境越えてサールブール進軍ループレヒト・フォン・バイエルン率いドイツ第6軍英語版)と第7軍英語版)は戦闘回避した8月16日リエージュ陥落した後、ドイツ軍右翼18日本命となる攻勢開始し連合国軍包囲するよう進撃したドイツ軍早くもブリュッセルナミュール押し寄せると、ベルギー軍大半アントウェルペン要塞退却、そこから2か月間にわたるアントウェルペン包囲戦英語版)が始まった20日フランス軍本命となるロレーヌザールルイ地域への侵攻開始したが、同時にドイツ反攻始まった。こうして、ザールブルクロンウィアルデンヌ英語版)、マース川サンブル川マース川の間、モンス英語版)という長大前線国境戦い英語版)と呼ばれる戦闘起き両軍とも大損害を被ったフランス軍8月20日から23日までの間に4万人戦死者出し、うち22日だけで2万7千人損害出した死傷者は主に機関銃による損害だった。フランスの第1, 2, 3, 4軍はドイツの第4, 5, 6, 7軍に敗れ左翼フランス第5軍イギリス海外派遣軍敗北した。しかし、フランス軍紀律保ちロレーヌではムルト川後ろナンシー周辺要塞群退却フランス北部でもマース川後ろにあるヴェルダン要塞保持したため、大部隊がドイツ包囲され失われるのを防いだループレヒト・フォン・バイエルンシュリーフェン・プラン破って成功推し進めるよう小モルトケ求め許可得たが、8月25日から9月7日まで続いたループレヒト攻勢戦局打開するには至らなかった。 左翼英仏軍は大撤退英語版)を開始、ル・カトーの戦い英語版)(8月26日)やサン=カンタン戦い英語版)(8月29日)を間に挟んで撤退続け、それを追撃するドイツ軍右翼パリへ接近したフランス政府9月2日パリからボルドー疎開し、パリ守備は既に引退していたジョゼフ・ガリエニ現役復帰して担当したフランス軍右翼予備軍から兵士引き抜かれミシェル=ジョゼフ・モーヌリー(英語版率いフランス第6軍英語版) に編成されドイツ軍への側面攻撃でその進軍脅かしたフェルディナン・フォッシュ率い第9軍英語版)は中央部投入された。ジョフルマルヌ川合流地点として撤退停止、そこから反転してドイツ軍攻撃するという計画立てた迂回して進軍していたドイツ第1から第5軍進軍速度保ちながら南西と南に方向転換したそのうちアレクサンダー・フォン・クルック率い第1軍8月20日ブリュッセル占領した後、フランス軍イギリス海外派遣軍追撃した前線拡大するにつれてドイツ攻勢奇襲性が失われドイツ軍右翼伸び切ったためその数的優位失われたドイツ軍進軍するにつれてドイツ軍連絡線伸びフランス軍連絡線縮んだのだった8月末にはドイツ軍歪んだ前線崩壊直前にまでなり、右翼反撃受けて南と南東向けて方向転換した。そして、パリ包囲計画8月30日放棄され、その報せ9月3日ジョフル届けられた。 当時ルクセンブルクにいたドイツ軍高司令部には前線情報がなく、特に脅かされていた右翼との電話連絡がなかった。無線使用した通信技術整っておらず、飛行隊からの報告はしばし無視された。ドイツ第1軍英語版32万人強行軍してイギリス海外派遣軍封じ込もうとしたが、その過程自軍西側守備無視してしまった。東部戦線に2個軍団割いたこと、アントウェルペン包囲戦英語版)やモブージュ包囲戦英語版)に軍を割いたこと、行軍戦闘による損害補給の不足により第1軍停滞、しかも既に500kmも行軍していたため疲れ切っていた。 9月6日フランス軍によるドイツ軍への側面攻撃始まった第一次マルヌ会戦)。ドイツ第1軍命令違反して9月5日マルヌ川南側進軍パリ周辺のル・プレシ=ベルヴィル英語版)、モルトフォンテーヌ(英語版)、モーまで進んだが、2日間にわたって撤退せざるを得なかった。その理由ドイツ第1軍第2軍の間に40kmの隙間生じ英仏軍が9月8日正午近くにそこに雪崩れ込んだためであったドイツ前線連絡おぼつかずドイツ軍が500km以上を行軍したため疲れ切っており、しかも包囲殲滅されるという脅威増大したため、第1軍第2軍視察命じられていたリヒャルト・ヘンチュ(ドイツ語版中佐撤退決定した撤退必要性、特に第1軍撤退は後に疑問視されたが、通説ではホルガー・アッフレルバッハ(ドイツ語版)が述べたように、「撤退作戦上は正しく必須だったが、その心理的影響致命的だった」。シュリーフェン・プラン失敗終わりアルザス=ロレーヌフランス軍圧迫することも失敗した9月9月小モルトケ手紙でこう綴った: .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}これは良くない。[...]希望満ちた開戦正反対に変わった。[...]わずか数週間前の見事な戦役とはどんなにうだろう。[...]私は、人民勝利を渇望したがためにこの不幸にえられないことを恐れている。 モルトケ神経衰弱をきたし、エーリッヒ・フォン・ファルケンハイン後任参謀総長となったドイツ第1軍第2軍撤退余儀なくされ、残り軍勢もそれに続いたドイツ軍エーヌ川後ろ撤退したことで9月13日第一次エーヌ会戦英語版)が生起したが、この戦闘塹壕戦への移行きっかけとなったドイツ軍エーヌ川後ろ撤退した後、塹壕掘って守備整え態勢回復した9月17日にはフランス軍反撃したが、戦況膠着した。ドイツ軍の撤退フランスではマルヌ奇跡」と呼ばれたが、ドイツでは批判受けたファルケンハイン帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク対しシュリーフェン・プラン失敗した後の軍事情勢ドイツ国民説明するよう提案したが、ベートマン・ホルヴェーク拒否したファルケンハインそれまで方針従い、まず西部戦線決着つけようとした。9月13日から10月19日までの海への競争英語版)において、両軍とも側面攻撃仕掛けようとしたが、前線エーヌ川から北海沿岸ニーウポールトまで広がっただけに終わった10月初に両軍が行軍の戦術再開ドイツ軍多大な損失出しながらリールヘントブルッヘオーステンデ占領したが、戦況打開するには至らなかった。その後戦場はさらに北のフランドル移り英仏海峡面するカレーダンケルク経由するイギリスからの増援中断された。 9月17日イギリス代表的作家53人が首都ロンドンにおいて声明イギリスの戦争の擁護』を出した10月4日ドイツ大学人による『93人のマニフェスト(文化的世界へ訴える)』が出された。10月16日にはドイツの大学工科大学53校の講師教授ほぼ全員に当たる合計3千人連名で『ドイツ帝国大学声明』を出して大戦を「ドイツ文化防衛戦」として正当化したイギリスなど学者10月21日米紙ニューヨーク・タイムズ上でドイツ大学人への返答出した10月20日から11月18日まで、イーペル激し戦闘起こり第一次イーペル会戦英語版))、大急ぎ投入されドイツ予備部隊はランゲマルク(英語版)とイーペル大損害を受けた訓練経験不足していた予備軍士官が若い兵士15歳兵士もいたほどだった)を率いたが、数万人の損害出して何もなさなかった。壊滅的な結果にもかかわらず、ランゲマルクの神話ドイツ語版)が作られ軍事上の敗北道徳上の勝利として解釈する第一次世界大戦における初の事例となった同盟軍イギリス補給港であるブローニュ=シュル=メールカレー、および鉄道中心地であるアミアンドイツ軍から守ることに成功した行軍競争第一次イーペル会戦とともに終結したドイツ軍西部戦線強固な塹壕線を掘り戦闘塹壕戦移行した塹壕突破試み1914年時点では全て失敗終わり北海からスイス国境第一次世界大戦下スイスドイツ語版)も参照)まで長さ約700kmにわたる前線塹壕戦への移行により固定化し、両軍塹壕の間には約50mの距離が開いたファルケンハイン11月18日ベートマン・ホルヴェーク宰相対し三国協商との戦争勝ち目なくなった通告して、外交通じた終戦求めた。彼はイギリスとの講和不可能と考えそれ以外交戦国単独講和するよう求めたが、ベートマン・ホルヴェーク拒否したベートマン・ホルヴェーク拒否したのは占領地手放したくないとの政治的な考えがあってのことだった。パウル・フォン・ヒンデンブルクエーリヒ・ルーデンドルフも敵を全滅させるという立場崩さず勝利の平和を可能であると判断した結局首相軍部世間からマルヌ会戦イーペル会戦敗北隠蔽して戦闘継続したため、政治と軍事情勢政治と経済エリート層の戦争目標への望み乖離していき、戦中と戦後社会闘争つながった11月イギリス海軍北海全域交戦地帯定め海上封鎖敷いたドイツ封鎖)。中立国の旗を掲げ船舶でもイギリス警告なしで攻撃される可能性出たが、イギリス海軍のこの行動1856年パリ宣言反するものだった

※この「西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行」の解説は、「第一次世界大戦」の解説の一部です。
「西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行」を含む「第一次世界大戦」の記事については、「第一次世界大戦」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行」の関連用語

西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの第一次世界大戦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS