西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行
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「第一次世界大戦」の記事における「西部戦線における戦争計画の失敗と塹壕戦への移行」の解説
詳細は「西部戦線 (第一次世界大戦)」を参照 ドイツ陸軍の西部国境への集結がまだ続いている最中の1914年8月5日、ドイツ第10軍団(英語版)はベルギーのリエージュ要塞への攻撃を開始した(リエージュの戦い)。リエージュの町は7日に陥落したが、その周りを囲むように建造されたリエージュの12要塞(英語版)はすぐには陥落しなかった。ドイツはディッケ・ベルタという重砲を投入して要塞を落とし、16日にリエージュを完全に征服した。戦闘で特筆に値する事柄は、15日に砲弾がロンサン砦(英語版)の弾薬庫に直撃して砦ごと破壊したことがある。難攻不落とされたリエージュ要塞群があっさりと陥落したため、フランスの戦闘計画は方針転換を余儀なくされた。 第一次世界大戦において、一般市民への攻撃が初めて行われたのは8月2日、リエージュ近くのヴィゼ、ダレム(英語版)、バティス(フランス語版)で起きたことだった。その後の数週間、ドイツ軍はベルギーとフランスの一般市民にしばしば暴力をふるったが、その理由はフラン=ティルール(英語版)によるドイツ軍へのゲリラ攻撃だった。ドイツ軍が初めてベルギーの民衆を大量処刑したのは8月5日のことで、最も重い戦争犯罪についてはディナン(英語版)、タミーヌ(フランス語版)、アンデンヌ(英語版)、アールスコートで起きた。このような報復攻撃により、1914年8月から10月までの間に民間人6,500人が犠牲者になり、またレーヴェンの破壊(ドイツ語版)でドイツは国際世論の非難を受けた。これらの戦争犯罪はイギリスのプロパガンダで真偽まじりで宣伝され、「ベルギーの強奪(英語版)」という語が生まれた。 ドイツ軍がシュリーフェン・プランを実施するために迂回している中、フランス側ではプラン17(英語版)を準備していた。プラン17ではドイツの計画と違い、ロレーヌでの中央突破を戦略としていた。実際の大規模攻撃の前、ミュルーズへの攻撃も予定していた。フランス軍の指揮官ジョゼフ・ジョフルはドイツ軍を南部で釘付けにすることと、フランス国民の戦意高揚を目的として、普仏戦争でドイツ領となっていたアルザス=ロレーヌの奪還を掲げた。フランス軍は住民の一部に歓迎される中、8月7日にアルザスの工業地帯で2番目の大都市であるミュルーズを占領して、一時的に戦意高揚に成功したが、9日にはドイツ軍に奪還された。その後、ドイツ軍は8月24日までにドラー川(英語版)沿岸とヴォージュ山脈の一部を除いて奪還、以降、終戦まで維持した。フランス軍の攻撃を指揮したルイ・ボノー(フランス語版)はジョフルに解任された。 ジョフルは当初プラン17の遂行に集中して、フランス兵170万を5個軍に編成、ドイツによるベルギー攻撃を顧みなかった。だがドイツ軍の行軍を完全に無視することはさすがにできなかったため、シャルル・ランレザック(英語版)率いるフランス第5軍(英語版)を北西部に派遣した。ちょうどフランスに上陸した、ジョン・フレンチ率いるイギリス海外派遣軍はモブージュの北でフランス軍と合流した。フランスの攻勢は8月14日に始まり、オーギュスタン・デュバイ(英語版)率いるフランス第1軍(英語版)とエドゥアール・ド・クリエール・ド・カステルノー(英語版)率いるフランス第2軍(英語版)は国境を越えてサールブールに進軍、ループレヒト・フォン・バイエルン率いるドイツ第6軍(英語版)と第7軍(英語版)は戦闘を回避した。 8月16日にリエージュが陥落した後、ドイツ軍右翼は18日に本命となる攻勢を開始し連合国軍を包囲するよう進撃した。ドイツ軍が早くもブリュッセルとナミュールに押し寄せると、ベルギー軍の大半はアントウェルペンの要塞に退却、そこから2か月間にわたるアントウェルペン包囲戦(英語版)が始まった。20日、フランス軍は本命となるロレーヌとザールルイ地域への侵攻を開始したが、同時にドイツの反攻も始まった。こうして、ザールブルク、ロンウィ、アルデンヌ(英語版)、マース川、サンブル川とマース川の間、モンス(英語版)という長大な前線で国境の戦い(英語版)と呼ばれる戦闘が起き、両軍とも大損害を被った。フランス軍は8月20日から23日までの間に4万人の戦死者を出し、うち22日だけで2万7千人の損害を出した。死傷者は主に機関銃による損害だった。フランスの第1, 2, 3, 4軍はドイツの第4, 5, 6, 7軍に敗れ、左翼のフランス第5軍とイギリス海外派遣軍も敗北した。しかし、フランス軍は紀律を保ち、ロレーヌではムルト川の後ろ、ナンシー周辺の要塞群に退却。フランス北部でもマース川の後ろにあるヴェルダン要塞を保持したため、大部隊がドイツに包囲されて失われるのを防いだ。ループレヒト・フォン・バイエルンはシュリーフェン・プランを破って成功を推し進めるよう小モルトケに求め、許可を得たが、8月25日から9月7日まで続いたループレヒトの攻勢は戦局を打開するには至らなかった。 左翼の英仏軍は大撤退(英語版)を開始、ル・カトーの戦い(英語版)(8月26日)やサン=カンタンの戦い(英語版)(8月29日)を間に挟んで撤退を続け、それを追撃するドイツ軍右翼はパリへと接近した。フランス政府は9月2日にパリからボルドーに疎開し、パリの守備は既に引退していたジョゼフ・ガリエニが現役復帰して担当した。フランス軍右翼と予備軍から兵士が引き抜かれてミシェル=ジョゼフ・モーヌリー(英語版)率いるフランス第6軍(英語版) に編成され、ドイツ軍への側面攻撃でその進軍を脅かした。フェルディナン・フォッシュ率いる第9軍(英語版)は中央部に投入された。ジョフルはマルヌ川を合流地点として撤退を停止、そこから反転してドイツ軍に攻撃するという計画を立てた。 迂回して進軍していたドイツ第1から第5軍は進軍の速度を保ちながら南西と南に方向転換した。そのうち、アレクサンダー・フォン・クルック率いる第1軍は8月20日にブリュッセルを占領した後、フランス軍とイギリス海外派遣軍を追撃した。前線が拡大するにつれて、ドイツの攻勢の奇襲性が失われ、ドイツ軍右翼が伸び切ったためその数的優位も失われた。ドイツ軍が進軍するにつれて、ドイツ軍の連絡線が伸び、フランス軍の連絡線が縮んだのだった。8月末にはドイツ軍の歪んだ前線が崩壊直前にまでなり、右翼も反撃を受けて南と南東に向けて方向転換した。そして、パリの包囲計画は8月30日に放棄され、その報せは9月3日にジョフルに届けられた。 当時ルクセンブルクにいたドイツ軍最高司令部には前線の情報がなく、特に脅かされていた右翼との電話連絡がなかった。無線を使用した通信も技術が整っておらず、飛行隊からの報告はしばしば無視された。ドイツ第1軍(英語版)32万人は強行軍してイギリス海外派遣軍を封じ込もうとしたが、その過程で自軍の西側の守備を無視してしまった。東部戦線に2個軍団を割いたこと、アントウェルペン包囲戦(英語版)やモブージュ包囲戦(英語版)に軍を割いたこと、行軍と戦闘による損害、補給の不足により第1軍は停滞、しかも既に500kmも行軍していたため疲れ切っていた。 9月6日、フランス軍によるドイツ軍への側面攻撃が始まった(第一次マルヌ会戦)。ドイツ第1軍は命令に違反して9月5日にマルヌ川の南側に進軍、パリ周辺のル・プレシ=ベルヴィル(英語版)、モルトフォンテーヌ(英語版)、モーまで進んだが、2日間にわたって撤退せざるを得なかった。その理由はドイツ第1軍と第2軍の間に40kmの隙間が生じ、英仏軍が9月8日の正午近くにそこに雪崩れ込んだためであった。ドイツ前線の連絡はおぼつかず、ドイツ軍が500km以上を行軍したため疲れ切っており、しかも包囲殲滅されるという脅威が増大したため、第1軍と第2軍の視察を命じられていたリヒャルト・ヘンチュ(ドイツ語版)中佐は撤退を決定した。 撤退の必要性、特に第1軍の撤退は後に疑問視されたが、通説ではホルガー・アッフレルバッハ(ドイツ語版)が述べたように、「撤退は作戦上は正しく必須だったが、その心理的影響は致命的だった」。シュリーフェン・プランは失敗に終わり、アルザス=ロレーヌでフランス軍を圧迫することも失敗した。9月9月、小モルトケは手紙でこう綴った: .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}これは良くない。[...]希望に満ちた開戦が正反対に変わった。[...]わずか数週間前の見事な戦役とはどんなに違うだろう。[...]私は、人民が勝利を渇望したがためにこの不幸に耐えられないことを恐れている。 モルトケは神経衰弱をきたし、エーリッヒ・フォン・ファルケンハインが後任の参謀総長となった。ドイツ第1軍と第2軍は撤退を余儀なくされ、残りの軍勢もそれに続いた。ドイツ軍がエーヌ川の後ろに撤退したことで9月13日に第一次エーヌ会戦(英語版)が生起したが、この戦闘は塹壕戦への移行のきっかけとなった。ドイツ軍はエーヌ川の後ろに撤退した後、塹壕を掘って守備を整え、態勢を回復した。9月17日にはフランス軍が反撃したが、戦況が膠着した。ドイツ軍の撤退はフランスでは「マルヌの奇跡」と呼ばれたが、ドイツでは批判を受けた。ファルケンハインは帝国宰相テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェークに対し、シュリーフェン・プランが失敗した後の軍事情勢をドイツ国民に説明するよう提案したが、ベートマン・ホルヴェークは拒否した。 ファルケンハインはそれまでの方針に従い、まず西部戦線に決着をつけようとした。9月13日から10月19日までの海への競争(英語版)において、両軍とも側面攻撃を仕掛けようとしたが、前線がエーヌ川から北海沿岸のニーウポールトまで広がっただけに終わった。10月初に両軍が行軍の戦術を再開、ドイツ軍は多大な損失を出しながらリール、ヘント、ブルッヘ、オーステンデを占領したが、戦況を打開するには至らなかった。その後、戦場はさらに北のフランドルに移り、英仏海峡に面するカレーとダンケルクを経由するイギリスからの増援は中断された。 9月17日、イギリスの代表的作家53人が首都ロンドンにおいて声明『イギリスの戦争の擁護』を出した。10月4日、ドイツ大学人による『93人のマニフェスト(文化的世界へ訴える)』が出された。10月16日にはドイツの大学と工科大学53校の講師、教授ほぼ全員に当たる合計3千人が連名で『ドイツ帝国大学声明』を出して大戦を「ドイツ文化の防衛戦」として正当化した。イギリスなどの学者は10月21日に米紙『ニューヨーク・タイムズ』上でドイツ大学人への返答を出した。 10月20日から11月18日まで、イーペルで激しい戦闘が起こり(第一次イーペル会戦(英語版))、大急ぎで投入されたドイツの予備部隊はランゲマルク(英語版)とイーペルで大損害を受けた。訓練も経験も不足していた予備軍の士官が若い兵士(15歳の兵士もいたほどだった)を率いたが、数万人の損害を出して何もなさなかった。壊滅的な結果にもかかわらず、ランゲマルクの神話(ドイツ語版)が作られ、軍事上の敗北を道徳上の勝利として解釈する、第一次世界大戦における初の事例となった。同盟軍はイギリスの補給港であるブローニュ=シュル=メールとカレー、および鉄道の中心地であるアミアンをドイツ軍から守ることに成功した。 行軍の競争は第一次イーペル会戦とともに終結した。ドイツ軍は西部戦線で強固な塹壕線を掘り、戦闘は塹壕戦に移行した。塹壕突破の試みは1914年時点では全て失敗に終わり、北海からスイス国境(第一次世界大戦下のスイス(ドイツ語版)も参照)まで長さ約700kmにわたる前線は塹壕戦への移行により固定化し、両軍の塹壕の間には約50mの距離が開いた。 ファルケンハインは11月18日にベートマン・ホルヴェーク宰相に対し、三国協商との戦争は勝ち目がなくなったと通告して、外交を通じた終戦を求めた。彼はイギリスとの講和は不可能と考え、それ以外の交戦国と単独講和するよう求めたが、ベートマン・ホルヴェークは拒否した。ベートマン・ホルヴェークが拒否したのは占領地を手放したくないとの政治的な考えがあってのことだった。パウル・フォン・ヒンデンブルクもエーリヒ・ルーデンドルフも敵を全滅させるという立場を崩さず、勝利の平和を可能であると判断した。結局、首相と軍部は世間からマルヌ会戦とイーペル会戦の敗北を隠蔽して戦闘を継続したため、政治と軍事情勢が政治と経済のエリート層の戦争目標への望みと乖離していき、戦中と戦後の社会闘争につながった。 11月、イギリス海軍は北海全域を交戦地帯と定め、海上封鎖を敷いた(ドイツ封鎖)。中立国の旗を掲げる船舶でもイギリスに警告なしで攻撃される可能性が出たが、イギリス海軍のこの行動は1856年のパリ宣言に反するものだった。
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