ウィリアム・ヘンリー砦の破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/08 07:17 UTC 版)
「ウィリアム・ヘンリー砦の戦い」の記事における「ウィリアム・ヘンリー砦の破壊」の解説
惨事ののち、午後になって大部分のインディアンは集落へと戻った。モンカルムは捕囚した500人の捕虜たちを安全に釈放できたものの、他にまだ200人の捕虜がいた。フランス軍は、その地に数日間留まって、8月18日にカリヨン砦に戻る前に、イギリスが建てたこの砦を破壊した。あまり知られていない話だが、モンカルムは、勝利をより確かなものにするための、エドワード砦への攻撃は見送った。この決断を裏付けるために、様々な説が出ているが、多くの(すべてではないが)インディアンが去って行ったこと、食糧の不足、ハドソン川への連水陸路(ロシア語版、英語版)で荷物を牽かせるための馬の不足、そして、民兵たちを収穫の時期に合わせて帰省させる必要があったことなどがあげられる。 フランス軍の動きが、イギリス側のインディアン斡旋の有力者であるサー・ウィリアム・ジョンソンに届いたのが8月1日のことだった。ウェッブとは違って、ジョンソンはかなり急いで、8月6日に1,500人の民兵、150人のインディアンとともにエドワード砦に着いた。ウェッブが取った手段はジョンソンを激怒させた。ウェッブは、ウィリアム・ヘンリー砦へのジョンソン軍の進軍を拒否したのだ。明らかに、フランス軍が11,000人の勢力であること、如何なる救援が試みられ、使用可能な援軍が来ても無駄であるという、フランスの脱走兵の情報を真に受けていたのである。
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