初期の作品と政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 10:11 UTC 版)
「ダビッド・アルファロ・シケイロス」の記事における「初期の作品と政治」の解説
多くの人が、シケイロスの芸術は政治によって「遮られること」が多かったと言うが、シケイロス自身は芸術と政治は複雑に絡み合っていると言っていた。『Vida Americana(アメリカの生命)』に有名なマニフェストを書いた1921年には、シケイロスはマルクス主義と出会っていたし、護憲軍で労働者や田舎の貧困も知っていた。 『A New Direction for the New Generation of American Painters and Sculptors』の中でシケイロスは、古典絵画の価値の回復と同時に、そのスタイルに「現代のマシーン」や「日々の生活の現代的側面」を認知した「新しい価値」を吹き込むための「魂の復活」を求めた。また、「建設的な魂」は、単に装飾的なだけだったり軽率で現実離れした芸術の上位に立つ、意義ある芸術の本質であるとも主張した。この主張に則って、シケイロスは国と世界を繋ぐ芸術スタイルを創造しようと望んだ。執筆同様、作品においても、シケイロスはメキシコ人にとどまらず世界中のプロレタリアート階級に喝采をもって迎えられる社会主義リアリズムを追い求めた。しかし、トレンディな「原始主義(Primitivism)」や「インディアニズム」のステレオタイプ(Cliché)になることは避けた。 1922年、シケイロスはアルバロ・オブレゴンの革命政府のための壁画家として働くため、メキシコシティに戻った。文部大臣(Secretaría de Educación Pública)のホセ・バスコンセロスはパブリックアートを通して一般大衆を教育する目的で、現代のメキシコ文化を作るべく、多くの美術家・作家を雇ったのだった。そのバスコンセロスの下で、シケイロスはリベラ、オロスコとともに働いた。バスコンセロスはメキシコシティの著名な建物への壁画制作を委嘱することで、壁画主義運動を支持した。しかし、まだPreparatoria(高校。詳しくはes:Bachillerato (México)を参照)の美術家たちの作品の多くは、そのイデオロギーが求めた「パブリック」の本質を欠いていることが明らかになった。そのため1923年、Syndicate of Revolutionary Mexican Painters, Sculptors and Engravers(革命メキシコ画家・彫刻家シンジケート)が組織されることになり、シケイロスはそれを手伝った。シンジケートは機関紙『El Machete』を通じて広く一般大衆の参加を呼びかけた。その年、『El Machete』は「世界のプロレタリアートのために」というマニフェストを出した。シケイロスはその著者の手伝いをし、「イデオロギー的なプロパガンダ」として、大衆を教育し、ブルジョワ的個人主義的芸術を打破することに尽くす「集団」芸術の必要性について説いた。 その直後、シケイロスはColegio Chidoの階段吹き抜けに、有名な壁画『労働者の墓』(1923年)を描いた。このフレスコ画には、金槌と鎌で飾られた墓の上で悲しんでいる原住民の女性が描かれている。しかしシンジケートが、約束した改革をいっこうに実行に移さない革命政府の批判をますます強めた時、メンバーたちは芸術と機関紙の財源を絶つという脅迫を受けた。シンジケートの中で、機関紙の発刊をやめるか、壁画計画の経済的支援を失うかの口論が起き、シケイロスは活動の中心から外された。その時リベラも、芸術より政治を支持するという決定に抗議してシンジケートを去っていった。1925年、文部省の指導下の「教授」職を取り上げられたにもかかわらず、シケイロスはシンジケートでメキシコ共産党で深く組合運動にかかわり続け、そのために投獄され、最終的には1930年代初期に国外追放の憂き目を見た。
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