大村氏との抗争
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純堯は、有馬義貞や同盟関係にあった大村純忠がキリシタン大名となると離反し、後藤貴明や松浦氏と同盟を結び大村・長崎へ侵攻した。元亀3年(1572年)、深堀純賢と図り、純堯は大村純忠を、純賢は長崎氏を攻撃した。純賢勢は長崎氏領の館や教会を焼きはらったが、武士や百姓の激しい抵抗を受け撤兵した。一方、純堯勢も大村純忠が戦死したとの噂が立つほどに攻め立てるも、純忠の反撃を受け撤退している。ルイス・フロイスの『日本史』によると、フロイスに「伊佐早殿」と称される純堯は「有馬義貞を家来同然に扱い」、キリスト教へ入信しようとした義貞は純堯を憚り入信を逡巡するほどであった。そのためフロイスは、純堯について「詭計、策略、欺瞞の点では、下の殿たちの第一人者であった」と、厳しい評価を下している。 熱心な仏教徒である純堯は、キリシタンとなった大村純忠を予てから苦々しく思っていた。大村攻めが思うようにいかないことに苛立った純堯は、計略を用いて純忠を殺害し、大村領を併呑しようとした。天正元年(1573年)、純堯は純忠の実兄である有馬義貞に、純忠を誘殺するため、小浜へ呼び帰途に諌早城に立ち寄らせるよう要請した。謀を知った義貞は純堯の謀略を純忠へ知らせた。義貞は、純堯の純忠に対する憎悪の主な原因はキリスト教へ入信したことであり、棄教すれば純堯との敵対関係も解消されると忠告した。これに対して純忠は、領国や家臣及び、生命を失っても棄教はしないと返答した。純堯は、義貞を訪ねる純忠が城下を通る際、自分へ訪問を行うものと確信して純忠が来るのを待っていたが、純堯の謀略を聞いていた純忠は、急な病のため此度は訪問できないと伝え、城下を馬で疾駆し、純堯の謀略から逃れた。純堯はその後も、純賢と共に幾度も大村・長崎氏へ攻撃を加えたが、その都度、純忠や長崎純景によって退けられた。天正8年(1580年)も、大村・長崎勢に西郷勢は敗れた。この際、深堀純賢勢400は森崎に砦を構え迎撃したが、純景が自ら300の兵を指揮し桜馬場城から森崎に向かい、純忠の援軍も加わったため純賢の兵は破られた。以後、森崎の小山は勝山と呼ばれるようになり、これが、今日の長崎市勝山町の起源となっている。
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