大村氏との抗争とは? わかりやすく解説

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大村氏との抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 09:48 UTC 版)

西郷純堯」の記事における「大村氏との抗争」の解説

純堯は、有馬義貞同盟関係にあった大村純忠キリシタン大名となると離反し後藤貴明松浦氏同盟を結び大村長崎侵攻した元亀3年1572年)、深堀純賢図り、純堯は大村純忠を、純賢は長崎氏攻撃した。純賢勢は長崎氏領の館や教会焼きはらったが、武士百姓激し抵抗を受け撤兵した。一方、純堯勢も大村純忠戦死したとの噂が立つほどに攻め立てるも、純忠反撃を受け撤退している。ルイス・フロイスの『日本史』によると、フロイスに「伊佐早殿」と称される純堯は「有馬義貞家来同然に扱い」、キリスト教入信しようとした義貞は純堯を憚り入信逡巡するほどであった。そのためフロイスは、純堯について「詭計策略欺瞞の点では、下の殿たち第一人者であった」と、厳し評価下している。 熱心な仏教徒である純堯は、キリシタンとなった大村純忠予てから苦々しく思っていた。大村攻め思うよういかないことに苛立った純堯は、計略用いて純忠殺害し大村領を併呑ようとした天正元年1573年)、純堯は純忠実兄である有馬義貞に、純忠を誘殺するため、小浜呼び帰途諌早城に立ち寄らせるよう要請した。謀を知った義貞は純堯の謀略純忠知らせた。義貞は、純堯の純忠対す憎悪主な原因キリスト教入信したことであり、棄教すれば純堯との敵対関係解消される忠告した。これに対して純忠は、領国家臣及び、生命失って棄教はしない返答した。純堯は、義貞を訪ねる純忠城下を通る際、自分訪問を行うものと確信して純忠が来るのを待っていたが、純堯の謀略聞いていた純忠は、急な病のため此度訪問できない伝え城下を馬で疾駆し、純堯の謀略から逃れた。純堯はその後も、純賢と共に幾度も大村長崎氏攻撃加えたが、その都度純忠長崎純景によって退けられた。天正8年1580年)も、大村長崎勢に西郷勢は敗れたこの際深堀純賢400森崎に砦を構え迎撃したが、純景が自ら300の兵を指揮し桜馬場城から森崎向かい純忠援軍加わったため純賢の兵は破られた。以後森崎小山勝山呼ばれるようになり、これが、今日長崎市勝山町起源となっている。

※この「大村氏との抗争」の解説は、「西郷純堯」の解説の一部です。
「大村氏との抗争」を含む「西郷純堯」の記事については、「西郷純堯」の概要を参照ください。

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