大村氏、有馬氏、龍造寺氏との戦い
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「後藤貴明」の記事における「大村氏、有馬氏、龍造寺氏との戦い」の解説
永禄3年9月、長島庄の旧主一族である渋江公師(貴明の従兄弟)に守らせていた潮見城(武雄市橘町永島)が有馬晴純の軍勢に攻められ奪取されると、貴明は直ちに出陣しこれを奪い返した。このとき、渋江公師は貴明の怒りに触れることを恐れて肥後国に逃亡したという。同年12月、今度は須古城(白石町堤)を攻めるが敗退する。 永禄4年(1561年)、塩田(嬉野市塩田町)を攻め、領主・原直景を降伏させる。永禄5年(1562年)、貴明は大友宗麟に秘かに書簡を送り、翌年、同盟を結ぶこととなった。 永禄6年(1563年)7月、貴明は大村家臣団と呼応してクーデターを起こさせ、自らも出陣して大村氏の平定を試みるが敗退する(野岳の戦い)。また、針尾島に兵を出して佐志方城を攻め落とし、かつ、佐世保、日宇、早岐、針尾島の四ヶ村を自らの領土としたという。なお、このとき、貴明に呼応した横瀬浦奉行・針尾伊賀守とともに、大村純忠が前年ポルトガルに提供した横瀬浦港も焼討ちした(『フロイス日本史』によれば8月15日(7月27日 (旧暦))の出来事とされている)。 同年7月、龍造寺隆信が武雄の手前の北方に迫ったため、貴明は隆信と和議を結ぶ。同年8月には和議に従って龍造寺氏の先鋒として須古城の平井経治を攻めるが失敗。貴明は逆に経治の娘を嗣子・惟明の妻に迎えて同盟を結んだ。永禄7年(1564年)2月、隆信は再度須古城を攻めるが、貴明は経治との同盟に従い龍造寺軍を攻撃、結局この戦の勝敗はつかなかった。 同年3月、今度は、平戸の松浦氏や諫早の西郷氏と呼応して大村方の彼杵城を攻め落とした。これに対し、同年8月、有馬・大村の連合軍が彼杵城に迫るも撃退、有明海側の鹿島方面からは有馬軍が塩田に迫ったが、これも撃退した。永禄9年(1566年)7月、貴明は大村に出陣し大村純忠を攻めるが失敗する。 元亀元年(1570年)4月、大友宗麟による佐嘉城(別名、佐嘉龍造寺城・村中城)の龍造寺隆信攻めに協力して包囲網の西方向から参陣する。なお、このときは大友氏に服属していた諸氏のほか、有馬氏、大村氏、西郷氏、平井氏も包囲網に参加し、龍造寺方5千に対し、大友方は6万とも8万といわれた戦いであり、龍造寺方の敗北は必至と思われたが、鍋島直茂(当時の名は鍋島信生)による奇襲により大友方は敗退している(今山の戦い)。 さらに元亀3年(1572年)7月には、平戸の松浦氏や諫早の西郷氏と呼応して、大村純忠の居城である三城を兵1500を率いて包囲した。三城にはわずか七騎(士官クラスの武将が7人。非戦闘員を含めて約80人程の籠城要員は存在)しかいなかったにもかかわらず、純忠は何とか防ぎきり、貴明は三城を陥とすことができなかった。
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