大村氏、有馬氏、龍造寺氏との戦いとは? わかりやすく解説

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大村氏、有馬氏、龍造寺氏との戦い

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/12/20 08:54 UTC 版)

後藤貴明」の記事における「大村氏、有馬氏、龍造寺氏との戦い」の解説

永禄3年9月長島庄の旧主一族である渋江公師(貴明従兄弟)に守らせていた潮見城(武雄市橘町永島)が有馬晴純軍勢攻められ奪取されると、貴明直ち出陣しこれを奪い返した。このとき、渋江公師は貴明怒り触れることを恐れて肥後国逃亡したという。同年12月今度須古城白石町堤)を攻めるが敗退する。 永禄4年1561年)、塩田嬉野市塩田町)を攻め領主・原直景を降伏させる永禄5年1562年)、貴明大友宗麟秘かに書簡送り翌年同盟を結ぶこととなった永禄6年1563年7月貴明大村家臣団と呼応してクーデターを起こさせ、自らも出陣し大村氏平定試みるが敗退する(野岳の戦い)。また、針尾島に兵を出して佐志方城攻め落とし、かつ、佐世保日宇早岐針尾島四ヶ村を自らの領土としたという。なお、このとき、貴明呼応した横瀬浦奉行針尾伊賀とともに大村純忠前年ポルトガル提供した横瀬浦港も焼討ちした(『フロイス日本史によれば8月15日7月27日 (旧暦))の出来事とされている)。 同年7月龍造寺隆信武雄の手前の北方迫ったため、貴明隆信和議を結ぶ。同年8月には和議に従って龍造寺氏先鋒として須古城平井経治攻めるが失敗貴明逆に経治の娘を嗣子・惟明の妻に迎えて同盟結んだ永禄7年1564年2月隆信再度須古城攻めるが、貴明は経治との同盟従い龍造寺軍を攻撃結局この戦の勝敗はつかなかった。 同年3月今度は、平戸松浦氏諫早西郷氏呼応して大村方の彼杵城を攻め落とした。これに対し同年8月有馬大村連合軍彼杵城に迫るも撃退有明海側の鹿島方面からは有馬軍が塩田迫ったが、これも撃退した永禄9年1566年7月貴明大村出陣し大村純忠攻めるが失敗する元亀元年1570年4月大友宗麟による佐嘉城(別名、佐嘉龍造寺城・村中城)の龍造寺隆信攻め協力して包囲網西方向から参陣する。なお、このときは大友氏服属していた諸氏のほか、有馬氏大村氏西郷氏平井氏包囲網参加し龍造寺方5千に対し大友方は6万とも8万といわれた戦いであり、龍造寺方の敗北必至思われたが、鍋島直茂当時の名は鍋島信生)による奇襲により大友方は敗退している(今山の戦い)。 さらに元亀3年1572年7月には、平戸松浦氏諫早西郷氏呼応して大村純忠居城である三城を兵1500率いて包囲した三城にはわずか七騎(士官クラス武将が7人。非戦闘員含めて80人程の籠城要員存在)しかいなかったにもかかわらず純忠は何とか防ぎきり、貴明三城を陥とすことができなかった。

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