本多忠直 (大和国郡山藩主)
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時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 寛文10年(1670年)[1] |
死没 | 享保2年5月8日(1717年6月16日) |
改名 | 大藤(幼名)、忠直 |
戒名 | 遷妙院殿顕忠日直大居士 |
墓所 | 山梨県南巨摩郡身延町の身延山久遠寺 |
官位 | 従五位下・越中守、信濃守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家宣→家継→吉宗 |
藩 | 大和郡山藩主 |
氏族 | 本多氏(平八郎家) |
父母 |
父:本多忠晴、母:不詳 養父:本多忠常 |
妻 |
正室:石井氏 側室:稲垣氏 |
子 | 忠通、忠村、忠如、忠烈、土井利庸正室、米倉忠仰正室、戸田忠久正室 |
本多 忠直(ほんだ ただなお)は、江戸時代中期の大名。大和国郡山藩の第3代藩主。官位は従五位下・越中守、信濃守。
略歴
第2代藩主・本多忠常の兄に当たる大名(忠直の出生当時は浅川藩主)本多忠晴の長男として誕生した。幼名は大藤。
元禄15年(1702年)12月18日、従五位下、越中守に叙任される。宝永4年(1707年)10月10日、叔父の忠常の養嗣子となり、同年12月12日に信濃守に任官される。宝永6年(1709年)の忠常の死去により跡を継いだ。
享保2年(1717年)5月8日、48歳で死去し、跡を次男の忠村が継いだ。法号は遷妙院殿顕忠日直大居士。墓所は山梨県南巨摩郡身延町の身延山久遠寺。
系譜
脚注
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