本多忠永とは? わかりやすく解説

本多忠永

読み方ほんだ ただなが

江戸後期大名俳人伊勢神戸藩主本多忠統の五男。通称は留之助・靫負。号は長月庵・清秋・老俳山・隨翁等。俳諧小栗旨原に学び和歌儒学茶道にも造詣深く兵学は要門流大家従五位下丹後守文化14年1817)歿、94才。

本多忠永

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/28 05:13 UTC 版)

 
本多忠永
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 享保9年5月17日1724年7月7日
死没 文化14年5月17日1817年7月1日
改名 留之助(幼名)→忠永
別名 清秋、随翁、長月庵(号)
戒名 桂徳院殿仁誉清秋随翁大居士
墓所 東京都江東区白河霊巌寺
官位 従五位下、丹後守、上総
幕府 江戸幕府
伊勢神戸藩
氏族 本多氏
父母 父:本多忠統
兄弟 康桓小笠原信胤忠篤、忠栄、忠永、忠明、
忠国、康政
正室:なし
忠賢、忠奝、内藤正識、
忠尹、知一、忠憲、忠建、娘(松平忠挙正室)
養子:忠興
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本多 忠永(ほんだ ただなが)は、伊勢神戸藩の第2代藩主。神戸藩本多家3代。

生涯

享保9年(1724年)5月17日、初代藩主本多忠統の五男として生まれる。延享4年(1747年)に嫡子の兄忠篤が早世したために世子となる。寛延3年(1750年)11月19日の父の隠居により、家督を継いだ。

寛延4年(1751年)4月、一橋門番となる。宝暦2年(1752年)6月、馬場先門番に任じられる。9月には日光祭礼奉行となる。宝暦3年(1753年)2月に大坂加番に任じられ、宝暦6年(1756年)6月には半蔵門番、宝暦9年(1759年)9月には田安門番などを歴任した。宝暦10年(1760年)10月13日、家督を養子の忠興(兄・忠篤の長男)に譲って隠居した。

天明4年(1784年)、剃髪して随翁と号した。その後は藩政に関わらず、小栗旨源に和歌俳句を学び、茶道にも関心を示して出雲松江藩松平治郷と交遊したという。著書に「俳諧ふたわらひ」がある。

文化14年(1817年)5月17日に死去した。享年94。家臣や領民に慕われていたこともあり、死後の文政元年(1818年)には儒学者の長野潜によって「思徳の碑」が建設されることとなった。

系譜

父母

子女

  • 本多忠賢
  • 本多忠奝(次男)
  • 内藤正識
  • 本多忠尹
  • 本多知一
  • 本多忠憲(六男)
  • 本多忠建
  • 松平忠挙正室

養子





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