本多忠次 (挙母藩主)とは? わかりやすく解説

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本多忠次 (挙母藩主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/25 23:31 UTC 版)

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本多忠次
時代 江戸時代前期から中期
生誕 延宝7年10月21日1679年11月24日
死没 正徳元年11月20日1711年12月29日
改名 幸之助(幼名)→毛利匡英→本多忠次
別名 通称:兵庫
戒名 高徳院殿貞山玄廉大居士
墓所 永源寺(滋賀県東近江市
官位 従五位下山城守
幕府 江戸幕府
主君 徳川綱吉家宣
三河挙母藩
氏族 毛利氏本多氏
父母 父:毛利綱元、母:池田光政の娘
養父:本多忠利
兄弟 毛利吉元忠次、毛利匡以、毛利元矩
正室本多忠利の娘
忠央(長男)、忠雄(次男)、娘(井上正之正室)
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本多 忠次(ほんだ ただつぐ)は、三河挙母藩の第2代藩主

生涯

延宝7年(1679年)10月21日、長門長府藩の第3代藩主・毛利綱元の次男として江戸で生まれる。初名は毛利匡英(もうり まさひで)。元禄5年(1692年)7月26日に挙母藩の初代藩主・本多忠利婿養子となって本多忠次を名乗る。毛利綱元の母・清殊院は忠利の姉妹であり、忠次は忠利の大甥にもあたった。元禄13年(1700年)の忠利の死去により家督を継いだ。

元禄14年(1701年)以来、領内で風水害が相次いで被害が大きく、そのために年貢収入は減少して藩財政が逼迫する。このため、有能な人材登用や養蚕業、綿などの産業振興に尽力して藩政改革を行なった。正徳元年(1711年)11月20日、挙母で死去した。享年33。跡を長男の忠央が継いだ。

死因は病死といわれているが、尾張藩の記録では「10月に藩内で抗争が起こり、それによって忠次は近臣を誅殺したが、自らも近臣によって殺され、正室も自害した」とされている。このような事情で改易を恐れた家臣団が、忠次の死因を偽り、時期をずらしたというものである。




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