本多忠利 (挙母藩主)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 本多忠利 (挙母藩主)の意味・解説 

本多忠利 (挙母藩主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/13 13:40 UTC 版)

ナビゲーションに移動 検索に移動
 
本多忠利
時代 江戸時代前期から中期
生誕 寛永12年(1635年
死没 元禄13年5月8日1700年6月24日
官位 従五位下山城守長門守
幕府 江戸幕府奏者番寺社奉行
主君 徳川家綱綱吉
陸奥国石川藩主→三河国挙母藩
氏族 本多氏本多平八郎家
父母 父:本多忠義、母:森忠政の娘・法光院
兄弟 忠平忠利忠以忠晴忠周忠常忠寄、他女子
娘(本多忠次正室)、冨姫(黒田吉之正室)
養子:忠寄忠次

本多 忠利(ほんだ ただとし)は、江戸時代前期から中期にかけての大名陸奥国石川藩主、三河国挙母藩主。

生涯

寛永12年(1635年)、本多忠義の次男として生まれる。寛文2年(1662年)11月25日、兄である陸奥国白河藩主・本多忠平により1万石を分与され石川藩を立藩し、その初代藩主となった。

寛文11年(1671年)4月25日に奏者番寺社奉行を兼任する。しかし延宝4年(1676年)12月25日に両職を辞任している。天和元年(1681年)9月15日に三河国挙母藩に移封される。

元禄13年(1700年)5月8日に死去した。享年66。嗣子が無かったため、婿養子忠次長府藩主・毛利綱元の次男で養子入籍前の本名は毛利匡英)が跡を継いだ。




英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「本多忠利 (挙母藩主)」の関連用語

本多忠利 (挙母藩主)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



本多忠利 (挙母藩主)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの本多忠利 (挙母藩主) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS