本多忠利 (岡崎藩主)とは? わかりやすく解説

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本多忠利 (岡崎藩主)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/15 16:08 UTC 版)

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本多忠利
撰要寺の本多家の墓。左から忠利、父の康紀、祖父の康重の墓。静岡県指定史跡(撰要寺墓塔群)[1]

本多 忠利(ほんだ ただとし、慶長5年(1600年) - 正保2年2月10日1645年3月7日))は、三河国岡崎藩主。広孝系本多家3代。

本多康紀の長男。母は松平家清の娘。正室は井上正就の娘。子に本多助久(長男)、本多利長(六男)、本多利朗(七男)、本多利政(九男)、本多利義(十男)、娘(太田資次正室)、娘(本多重時室)。官位は従五位下、伊勢守。

大坂夏の陣に父と共に参戦し、戦功を挙げる。元和9年(1623年)に父が没したため家督を継ぐ。寛永11年(1634年)には6500石を加増されている。

正保2年(1645年)1月、遠江国横須賀藩への移封を命じられたが、翌月に46歳で病死した。六男の利長が跡を継いだ。

脚注

  1. ^ 県指定文化財 史跡”. 掛川市. 2013年11月19日閲覧。





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