伊勢神戸藩主
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慶長6年(1601年)に1万5000石の加増を受け、5万石で伊勢国河曲郡神戸(現在の三重県鈴鹿市神戸)に転封された。この加増は、関ヶ原の戦いの論功行賞と見なされている。領国内には東海道が通る(東海道そのものは幕府支配)。 慶長7年(1602年)、織田信孝時代からの神戸城下「本町四町」に加え、萱町・竪町・鍛冶町を町方支配とし、城下町を拡張した。 慶長11年(1606年)に、徳川家康・秀忠の上洛に従った際には、「石薬師の駅」に迎接のための施設を仮設して点茶を献上し、以後将軍・大御所上洛時の例となった。なお、東海道に伝馬制度が創設された当時は四日市宿・亀山宿間に宿場が置かれておらず、正式に宿場(東海道五十三次の一つ)となるのは石薬師宿が元和2年(1616年)、庄野宿が寛永元年(1624年)である。 慶長15年(1610年)の名古屋城築城の天下普請に従事。慶長16年(1611年)には伯耆国米子城の守衛にあたる。 慶長19年(1614年)からの大坂の陣でも功を挙げた。以後、徳川秀忠・家光の上洛や日光社参に供奉した。 戦国時代に兵火にかかり荒廃していた領内の古刹石薬師寺(鈴鹿市石薬師町)の再建を進め、寛永6年(1629年)に完成を見ている。 寛永10年(1633年)には九鬼久隆転封後の鳥羽城守衛を命じられている。
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