名古屋城築城
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 21:04 UTC 版)
慶長12年(1607年)に徳川家康の四男で尾張清洲藩主だった松平忠吉が死去すると、旧領は家康の九男の徳川義直に与えられた。当時まだ大坂に健在だった豊臣氏が江戸へ進軍した場合のことを考えると、美濃路と伊勢路が合流する交通の要衝である濃尾平野は戦略上重要であった。しかし、当時清洲藩の藩庁が置かれていた清洲城は比較的狭く、すぐ側を五条川が流れることから氾濫の危険があり、また水攻めを受ける可能性もあった。 そのため、慶長14年(1609年)に家康は、清洲城に代わる義直の居城として名古屋城の築城を決定。同年のうちに縄張と地割を行い、翌慶長15年(1610年)閏2月には諸大名を動員しての天下普請として工事に着手した。先行して工事を進めた本丸・二の丸・西の丸・御深井丸については同年12月までに堀や石垣も含めて土木工事をすべて終えて建築工事に移り、慶長17年(1612年)末頃に完成した。平行して同年1月から三の丸の造成に入っていたが、この土木工事は困難を極め、特に三の丸北東部の丘陵を削って土居を造り、余った土で土居の北の沼沢地を埋め立てる工事は、死者を出すほどの難工事となった。豊臣氏との対立が深まっていた家康は工事を急ぎ、慶長19年(1614年)7月に一部が未完成であったが工事を終えた。当初の計画では三の丸まで含めた城全体を堀で囲み塀を巡らす計画であったが、三の丸北辺の東西約4町については堀も塀もまだ築かれていなかった。翌慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で豊臣氏が滅びると堅固な城を建てる差し迫った必要性が減少したため、工事は再開されることなく終わった。 こうして名古屋城三の丸の北辺は土居のままとなった。後に御土居下と呼ばれるようになる土居の北側の沼沢地を埋め立てた地域は、当初「鶉口(うずらぐち)」と呼ばれていた。鶉口とは非常口や裏口の意味であり、築城当初から、この地域が万が一の時の脱出経路として想定されていたことが分かる。
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