幕府役人の吟味終了と判決
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/10 16:44 UTC 版)
「郡上一揆」の記事における「幕府役人の吟味終了と判決」の解説
将軍側近の田沼意次が吟味に正式参加するようになったものの、本多正珍に対する尋問は認められなかった。また寺社奉行から西丸若年寄に昇格していた本多忠央への尋問も困難を極めた。吟味に正式参加するようになった田沼意次は本多忠央の責任追及に積極的であったが、郡上一揆に関して大橋親義への尋問で明らかになった事実を突きつけてもそのほとんどを否認し、石徹白騒動についての尋問では自らの行動は寺社奉行間の合議に基づくものであることを認めさせた。それでも宝暦8年9月14日(1758年10月15日)には本多忠央は若年寄を罷免される。能吏との誉れが高い幕末の川路聖謨は事件処理に関する書類を読み、田沼意次の手腕を激賞しており、評定所吟味の過程で思惑通りには行かなかった点もあったが、田沼は吟味の過程で高い政治的、行政的能力を遺憾なく発揮したと考えられる。田沼は幕府中枢部が関与した難事件である郡上一揆の評定所吟味に参画を命じた将軍家重を始め、幕府内の期待に見事に応えた。 宝暦8年10月8日(1758年11月8日)には本多忠央に対する吟味が終了したことによって幕府役人への吟味はほぼ終了した。宝暦8年10月29日(1758年11月29日)、元老中本多正珍以下、幕府役人に対しての判決言い渡しが行われた。判決では石徹白騒動については幕府役人の責任は問われず、全て郡上一揆に関しての罪状であった。 先に老中を罷免された本多正珍は老中一座から、事件について聞き知っていたにもかかわらず適切な処置を怠ったとして逼塞処分が言い渡された。その他の関係者は全て御詮議懸りから判決が言い渡された。まず西丸若年寄を罷免された本多忠央は、郡上藩の年貢徴収法改正に幕府役人である美濃郡代が介入するように動いた事実を認定され、改易の上松平重孝に永預けを言い渡された。大目付曲淵英元は事件のいきさつについて把握しておきながら、駕籠訴吟味の際に事実を述べなかった責任を問われ、御役召放、小普請入、閉門を申し渡され、勘定奉行大橋親義は本多忠央とほぼ同等の理由により改易、陸奥相馬中村藩に永預けを言い渡された。そして美濃郡代の青木次郎九郎に対しては、幕領でもない郡上藩の年貢徴収法について介入したことは筋違いであるとされ、御役召放、小普請入、逼塞を言い渡された。 百姓一揆に関連して老中、若年寄、大目付、勘定奉行といった幕府高官が大量処分されたのは郡上一揆以外に他の例は無い。しかし実際の幕府高官に対する吟味は、特に老中であった本多正珍に対しての吟味や処分は徹底さを欠き、幕府高官の郡上一揆への介入問題については、おおむね勘定奉行大橋親義らの私的理由による権力の濫用として処分が決定された。これは当時の幕府勘定所が個人の裁量による権限行使を戒め、組織による対応を進めていたことにも対応している。 また郡上一揆の裁判によって、幕府内ではあくまで農民に対する年貢増徴によって財政再建を図る本多正珍らの勢力が衰退し、田沼意次に代表される商業資本への間接税を推進する勢力が主導権を握るようになる。田沼は郡上一揆の裁判が進む中、宝暦8年(1758年)9月には加増されて1万石となって大名に列した。加増された領地は郡上一揆の判決で西丸若年寄を罷免され、改易された本多忠央の領地であった遠江の相良であり、また将軍世子家治付きの西丸若年寄を務めており、家治が将軍となった暁には権力の座に就くことが予想された本多忠央の失脚は、田沼意次が更に権勢を拡大させる要因の1つとなった。
※この「幕府役人の吟味終了と判決」の解説は、「郡上一揆」の解説の一部です。
「幕府役人の吟味終了と判決」を含む「郡上一揆」の記事については、「郡上一揆」の概要を参照ください。
- 幕府役人の吟味終了と判決のページへのリンク