幕府へ攘夷戦争を求める孝明天皇の朝廷
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「鳥羽・伏見の戦い」の記事における「幕府へ攘夷戦争を求める孝明天皇の朝廷」の解説
1853年(嘉永6年)黒船来航以来、時の第121代孝明天皇は「攘夷戦争」の決行を征夷大将軍を任ずる江戸幕府へ求めつづけていた。 1853(嘉永6)年、時の第12代将軍・徳川家慶はペリー初来航時に薨去し、次代の第13代将軍・徳川家定(当時29歳)は病弱で非常時の将軍にふさわしくない上に、子がいないので将軍継嗣問題が生じていた。翌1854年3月31日(嘉永7年3月3日)幕府大老で彦根藩主・井伊直弼らは、砲艦外交の下で浦賀に迫ったアメリカ合衆国(米国)軍艦との不平等条約である日米和親条約を、孝明天皇による勅許のないまま結んだ。一方朝廷の孝明天皇は、1858年9月14日(安政5年8月8日)攘夷戦争決行の為の幕政改革を依願する『戊午の密勅』(密勅:天皇からの秘密文書)を中納言で同幕府の称副将軍・御三家の水戸藩主へ送った。
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