まつだいら‐さだのぶ〔まつだひら‐〕【松平定信】
松平 定信 (まつだいら さだのぶ)
1758〜1829 (宝暦8年〜文政12年) |
【老中】 田沼意次の後、寛政の改革を断行したが、わずか6年で失脚。 |
白河藩主。徳川吉宗の孫。26歳で白河藩主となり、天明の飢饉では的確な藩政で餓死者を出さず、名君と讃えられた。田沼意次を失脚させ、1787年老中となり十一代将軍家斉を補佐した。農村崩壊、財政破綻、外国船の接近など、問題山積の幕政打開のため、寛政の改革を行った。しかし、はじめは期待された改革もうまく機能せず、家斉と対立、老中を解任された。その後は藩内で文教政策を推進した。 |
年(和暦) | ||
●1764年 (明和元年) | ■江戸大火 | 6才 |
●1772年 (安永元年) | ■目黒行人坂火事 | 14才 |
●1783年 (天明3年) | ■浅間山噴火 | 25才 |
●1789年 (寛政元年) | ■棄捐令 | 31才 |
●1790年 (寛政2年) | ■石川島に人足寄場を設置 | 32才 |
●1791年 (寛政3年) | ■江戸市中銭湯の男女混浴を禁止 | 33才 |
●1797年 (寛政9年) | ■湯島聖堂を昌平坂学問所と改称 | 39才 |
●1803年 (享和3年) | ■江戸開府200年 | 45才 |
●1806年 (文化3年) | ■芝の大火 | 48才 |
●1808年 (文化5年) | ■フェートン号事件 | 50才 |
●1825年 (文政8年) | ■異国船打払令 | 67才 |
●1828年 (文政11年) | ■シーボルト事件 | 70才 |
●1829年 (文政12年) | ■江戸大火 | 71才 |
・喜多川 歌麿 | 1753年〜1806年 (宝暦3年〜文化3年) | +5 |
・鶴屋 南北 | 1755年〜1829年 (宝暦5年〜文政12年) | +3 |
・大槻 玄沢 | 1757年〜1827年 (宝暦7年〜文政10年) | +1 |
・葛飾 北斎 | 1760年〜1849年 (宝暦10年〜嘉永2年) | -2 |
・山東 京伝 | 1761年〜1816年 (宝暦11年〜文化13年) | -3 |
・酒井 抱一 | 1761年〜1828年 (宝暦11年〜文政11年) | -3 |
・高橋 至時 | 1764年〜1804年 (明和元年〜文化元年) | -6 |
松平定信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/09/22 03:12 UTC 版)
松平 定信(まつだいら さだのぶ、宝暦8年12月27日〈1759年1月25日〉- 文政12年5月13日〈1829年6月14日〉)は、江戸時代中期の大名、老中。陸奥国白河藩の第3代藩主。定綱系久松松平家9代当主。江戸幕府8代将軍・徳川吉宗の孫。老中であった1787年から1793年まで寛政の改革を行った。定信は前任の田沼意次の政策をことごとく覆したとされているが、近年では、寛政の改革による政治は、田沼時代のものと連続面があるとの指摘もされている[2]。
注釈
- ^ 老中首座に就任した同じ月に描かれた定信30歳時の自画像。画像には入っていないが、画面右上に「撥乱而反正 賞善而罰悪」(乱をおさめて正にかえし、善を賞して悪を罰す)という定信の改革に対する決意が記されている。定信の肖像にはこの他に、定信自筆の頭部のみの自画像を元に、松平定永が狩野養信に命じて全身の肖像画を描かせた「松平楽翁像[1]」(福島県立博物館蔵)もある(桑名市・白河市合同企画展実行委員会編集・発行 『桑名市・白河市合同特別企画展 「大定信展 ─松平定信の軌跡─」』 2015年8月7日、34、84-85頁)。
- ^ 久松松平家は御連枝ではなく、譜代の家柄である。ただし、後に親藩扱いとなる。
- ^ 松平定信は物価論などの著書において「人々が利益ばかりを追求し、煙草を作ったり、養蚕をしたり、また藍や紅花を作るなどして地力を無駄に費やし、常に少ない労力で金を多く稼ぐことを好むので、米はいよいよ少なくなっている。農家も今は多く米を食べ、酒も濁り酒は好まず、かつ村々に髪結床などもあり、農業以外で生計を立てようとしている」「近年水害なども多く、豊作とよばれる年は数えるほどで、傾向として米は年をおって減少している。その減少した上に不時の凶作があれば、どれほど困難な事態が生じるであろうか。恐ろしいことである」と述べている。
- ^ 公儀から札差に2,3万両程融資することは、もとより計画段階から予定されていた
- ^ 同時期のヨーロッパでは、1792年4月20日にフランスがオーストリアに宣戦布告してフランス革命戦争が勃発すると、フランスの隣に位置するオーストリア領ネーデルラントも戦場となった。このことは、極東の千島でオランダ東インド会社が1643年に領土宣言をして以来、長崎との南北二極で日本列島を挟み他の欧米諸国を寄せ付けなかったオランダの海軍力が手薄になったことを意味した。更にロシアが南下を開始し、1792年9月3日、日本人漂流民である大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求めるアダム・ラクスマンが根室に来航した。翌1793年、オランダの戦況はフランス軍による制圧の様相がますます強まり、フランス革命戦争はヨーロッパ全域に波及する勢いで広がっていた。
- ^ 後に水野忠成が老中になり再び賄賂時代を迎えると今度は「水野出て 元の田沼と なりにけり」と皮肉られることとなった
- ^ 尊号一件は、成長した家斉が、厳格で形式を重んじる定信を嫌い、疎んじていた時に、タイミングよく起きた事件を巧みに利用して、定信を遠ざけたのだという指摘もある。
- ^ 一方で国外では、オランダ正月を祝った月に、オランダ共和国が滅亡し、代わってフランスの衛星国「バタヴィア共和国」が建国を宣言した。そして1797年、オランダ東インド会社はアメリカ船と傭船契約を結び、滅亡したオランダの国旗を掲げさせて長崎での貿易を継続することになった。しかし、1799年にオランダ東インド会社も解散した。雇い主を失ったオランダ商館は、なおもオランダ国旗を掲げさせたアメリカ船と貿易を続けた。
- ^ 田沼が丁銀から南鐐二朱銀への改鋳を推し進めた結果、秤量銀貨の不足による銀相場高騰を招き、天明6年(1786年)には金1両=銀50匁に至ることとなり、江戸の物価は高騰した。凶作による商品の供給不足もあり、年号とかけて「年号は安く永しと変われども、諸色高直(こうじき)いまにめいわく(明和9/迷惑)」と狂歌が歌われた。また、歴史学者の西川俊作は、『日本経済の成長史』の中で二朱銀の流通がゆっくりとしか拡大しなかったことから、意次の目的は、貨幣制度の統一ではなく、専ら貨幣発行益を獲得することにあったと結論付けている。
- ^ 1780年代、田沼が銭を大量発行したことで銭安になっており、西日本では計算通貨として秤量銀貨を使った方が有利だった。また、基本的に銭しか使わない庶民は銭安に苦しんだ。
- ^ 寛政の改革以前は山田羽書には準備金はなく、御師個人の信用と不動産の保証のみであったが、寛政の改革以降は大阪城に保管された羽書株仲間の上納積立金計8,080両と、羽書取締役6名の上納金5,500両の正貨準備金を保持することになるなど、より近代的な仕様となり信用強化が行われている。また、羽書の発行限度も原則として20,200両とされていたが寛政の改革で山田奉行管轄となった時には発行高は28,283両余と、8,083両余の空札が出ていた為、全ての空札を銷却を命じられるなど、信用崩壊の危機を脱している。
- ^ 8万両にのぼる公金の貸付けを田沼の時代にも実施している。ただし、これは江戸町人にのみ貸し付けられたものであり、田沼時代よりも規模を拡大し代官などを駆使して直接農村まで貸付し、その利息を農村や鉱山の復興に宛てた寛政期はさらに深化している
- ^ 田沼時代の支出削減政策として、予算制度を導入し各部署に予算削減を細かく報告させ、予算削減に努めたこと。禁裏財政への支出削減をかけたこと。大名達への拝借金を制限したこと。国役普請を復活させ工事費の負担を転化させたこと、認可権件を行使して民間の商人に任せるのを多用したこと。たびたび倹約令を出し支出を抑制したことなどがある。
出典
- ^ a b 「故上杉輝虎外四名贈位ノ件」 アジア歴史資料センター Ref.A10110299500
- ^ a b c d 高木 2016.
- ^ 定信伝記『守国公御伝記』
- ^ a b 高澤 2012, p. 4.
- ^ 高澤 2012, p. 3.
- ^ 高澤 2012, p. 2.
- ^ a b 高澤 2012, p. 10.
- ^ 高澤 2012, p. 29.
- ^ 高澤 2012, p. 102.
- ^ a b 藤田覚『近世の三大改革』山川出版社、2002年3月1日。
- ^ a b 高澤 2012, p. 96.
- ^ “貸付金とは・意味”. 2021年2月27日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 藤田覚『松平定信 政治改革に挑んだ老中』中央公論新社、1993年7月25日、95頁。
- ^ a b 吉田 元 (1992). “御免関東上酒 埼玉の旧家の記録から”. 日本醸造協会誌 87 巻 2 号: p. 116-123.
- ^ 高澤 2012, p. 88.
- ^ a b c d e 山室 恭子『江戸の小判ゲーム』講談社、2013年2月15日、69,70,71,72,73,91,92頁。
- ^ 高澤 2012, p. 103.
- ^ 藤田覚『幕末から維新へ』(岩波新書、2015年)
- ^ 井上克人・黄俊傑・陶徳民編『朱子学と近世・近代の東アジア』(国立台湾大学出版中心、2012年)
- ^ 高澤 2012, p. 130.
- ^ 『続徳川実紀』 - 文恭院殿御実紀
- ^ 高澤 2012, p. 152.
- ^ 高澤 2012, p. 193.
- ^ 高澤 2012, p. 266.
- ^ 高澤 2012, p. 203.
- ^ 高澤 2012, p. 273.
- ^ a b 高澤 2012, p. 274.
- ^ 高澤 2012, p. 275.
- ^ 高澤 2012, p. 276.
- ^ 徳川黎明会徳川林政史研究所編著『 江戸時代の古文書を読む―寛政の改革』(東京堂出版、2006年)p. 8
- ^ a b 藤田覚 (2018). 勘定奉行の江戸時代. ちくま新書
- ^ 高澤 2012, p. 90.
- ^ 高澤 2012, p. 87.
- ^ 高澤 2012, p. 161.
- ^ 藤田覚『日本近世の歴史〈4〉田沼時代』吉川弘文館、2012年
- ^ 辻善之助 1980, pp. 345–357, 解説 佐々木潤之介.
- ^ 藤田覚 2002, pp. 17–29, 「享保の改革」.
- ^ 丸山淳一 (2020年11月25日). “学術会議問題と「寛政異学の禁」から考える学問と政治の関係”. 読売新聞
- ^ 森銑三 「楽翁公の戯作」『森銑三著作集』第十一巻、中央公論社、1989年、ISBN 978-4-12-402781-5。
- ^ 安藤優一郎『お殿様の定年後』日経BP、2021年3月9日、108/195-125/195(kindle))頁。
- ^ “其の参、松平定信と前田利保~花が教える江戸の趣味人たち”. 2020年7月18日閲覧。
- ^ 山本博文『武士の評判記』新人物ブックス、14-17頁、ISBN 978-4-404-03981-1
- ^ 山本博文『江戸の組織人』新潮文庫、151 - 152頁、ISBN 978-4-10-116444-1
- ^ 高澤 2012, p. 5.
- ^ 磯崎康彦. “生誕250年・松平定信公伝 15”. 福島民友. 2020年5月13日閲覧。
- ^ 高澤 2012, p. 127.
- ^ 内藤正人 『大名たちが愛でた逸品・絶品 浮世絵再発見』 小学館、2005年、159-173頁、ISBN 978-4-09-387589-9。
- ^ 渋沢栄一『楽翁公伝』 岩波書店、1937年、17頁。
- ^ 杉本竜 「松平定信の絵画印章について」(桑名市・白河市合同企画展実行委員会編集・発行 『桑名市・白河市合同特別企画展 「大定信展 ─松平定信の軌跡─」』 2015年8月7日、114-118頁。
- ^ 国立国会図書館近代デジタルライブラリー『集古十種』
松平定信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/02 06:37 UTC 版)
老中。白河藩主。逼迫する財政状況を回復させんと辣腕を振るう。半兵衛のことを高く評価している。
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松平定信(演:第1部と第2部は美川洋一郎、第3部・第4部・第10部は大宮敏、第8部と第9部、映画版は加賀邦男)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/08 06:06 UTC 版)
「隠密剣士」の記事における「松平定信(演:第1部と第2部は美川洋一郎、第3部・第4部・第10部は大宮敏、第8部と第9部、映画版は加賀邦男)」の解説
天明7年(1787年)から少年期の将軍家斉のもとで老中首座と将軍輔佐役を務める。第1部では幕府の財政建て直しのため、豊富な資源が眠るといわれた松前藩の領地である蝦夷地の探索を秋草に依頼。第2部では甲州の山の中にあるとされる武田信玄の残した隠し金山の正体不明な管理者と背後の黒幕の探索を依頼。第3部では将軍職を狙う尾張藩の陰謀を阻止するために京坂巡視の旅へ出たが、定信の暗殺を尾張藩より命じられた忍者集団・伊賀十忍に東海道で命を狙われた。家斉の異母兄である秋草の方が立場が上なので秋草を「信千代様」又は「信千代君(のぶちよぎみ)」と呼び、秋草からは「定信」と呼ばれている。
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松平定信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/26 15:19 UTC 版)
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松平定信(まつだいら さだのぶ)
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「おしとね天繕」の記事における「松平定信(まつだいら さだのぶ)」の解説
ゴールドフィンガーで老中を勤め、家斉を裏から操り、幕府の実権を握ろうと企む。体格は大きいが、家斉よりも小さく包茎。
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松平定信
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/23 00:09 UTC 版)
老中。白河藩主。逼迫する財政状況を回復させんと、自ら麦飯・一汁一菜を守り通し、倹約ぶりを示している。
※この「松平定信」の解説は、「だましゑ歌麿」の解説の一部です。
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