たかはし‐よしとき【高橋至時】
高橋 至時 (たかはし よしとき)
1764〜1804 (明和元年〜文化元年) |
【天文学者】 寛政暦法を完成。伊能忠敬に測量技術を教えた。 |
天文学者。大坂定番同心の子。麻田剛立に天文・暦学を学ぶ。1795年、江戸に行き幕府天文方となり、寛政暦を完成した。その後、フランス人ラランド著の天文書から西洋天文学の優秀さを知り、命を削るようにして、その研究書『ラランデ暦書管見』を残した。なお伊能忠敬は、至時に天文・暦学を学んだ。 |
年(和暦) | ||
●1764年 (明和元年) | ■江戸大火 | 0才 |
●1772年 (安永元年) | ■目黒行人坂火事 | 8才 |
●1783年 (天明3年) | ■浅間山噴火 | 19才 |
●1789年 (寛政元年) | ■棄捐令 | 25才 |
●1790年 (寛政2年) | ■石川島に人足寄場を設置 | 26才 |
●1791年 (寛政3年) | ■江戸市中銭湯の男女混浴を禁止 | 27才 |
●1797年 (寛政9年) | ■湯島聖堂を昌平坂学問所と改称 | 33才 |
●1803年 (享和3年) | ■江戸開府200年 | 39才 |
・松平 定信 | 1758年〜1829年 (宝暦8年〜文政12年) | +6 |
・葛飾 北斎 | 1760年〜1849年 (宝暦10年〜嘉永2年) | +4 |
・山東 京伝 | 1761年〜1816年 (宝暦11年〜文化13年) | +3 |
・酒井 抱一 | 1761年〜1828年 (宝暦11年〜文政11年) | +3 |
・十返舎 一九 | 1765年〜1839年 (明和2年〜天保10年) | -1 |
・滝沢 馬琴 | 1767年〜1848年 (明和4年〜嘉永元年) | -3 |
・雷電 為衛門 | 1767年〜1825年 (明和4年〜文政8年) | -3 |
・佐藤 信淵 | 1769年〜1850年 (明和6年〜嘉永3年) | -5 |
高橋至時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 04:08 UTC 版)
高橋 至時(たかはし よしとき、明和元年11月30日(1764年12月22日) - 享和4年1月5日(1804年2月15日)は、江戸時代後期の天文学者。天文方に任命され、寛政暦への改暦作業において、間重富とともに中心的な役割を果たした。また、伊能忠敬の師としても知られる。子に天文学者で伊能忠敬の没後「大日本沿海輿地全図」を完成させた高橋景保、天保改暦を主導した渋川景佑がいる。
注釈
- ^ ただし渡邊敏夫は、至時が松岡に学んだというのは疑わしいとしている(渡辺(1986) p.209)。
- ^ 改暦について、幕府ははじめ麻田剛立を起用しようとしたが、剛立が高齢を理由に断り、代わりに至時と重富を推薦したといわれることが多い。しかし上原久は、当時幕府からの命令を断ることは死罪も免れ得ないことであるため通常はありえず、剛立が2人を推薦したという記録も見られないため、至時らは幕府から直接命を受けたと主張した(上原(1977) pp.138-140)。そして現在では後者の説も他の研究家などに受け入れられている(中村(2008) p.93)。
- ^ オランダ語の語学力については、文字と少しの名詞を知っているのみと言われているが、天文の専門用語はある程度理解していたのではないかという反論もある(上原(1977) pp.207-210)。
- ^ 至時はマイルを「里」と訳している。
- ^ ただし至時は天動説に基づき、太陽の公転軌道の半径を基準としている。
参照元
- ^ a b 嘉数(2016) p.105
- ^ 吉田(2005) p.291
- ^ 上原(1977) p.129
- ^ 日本学士院日本科学史刊行会編(1979) p.129
- ^ 大谷(1917) pp.670-671
- ^ a b 中村(2008) p.89
- ^ a b 吉田(2005) p.292
- ^ 上原(1977) p.218
- ^ 上原(1977) pp.215-217
- ^ 前山(1960) p.39
- ^ a b c 吉田(2005) p.293
- ^ 中村(2008) p.94
- ^ 上原(1977) pp.140-141
- ^ 大谷(1917) pp.673-674
- ^ 上原(1977) pp.142-143
- ^ 渡辺(2003) p.57
- ^ 渡辺(2003) p.80
- ^ 星埜(2010) p.27
- ^ 渡辺(2003) pp.83-84,115
- ^ 星埜(2010) p.37
- ^ a b 上原(1977) p.211
- ^ a b 吉田(2005) p.298
- ^ 上原(1977) pp.211-212
- ^ 嘉数(2016) p.117
- ^ 中村(2008) p.95
- ^ a b c 上原(1977) p.213
- ^ 嘉数(2016) p.118
- ^ 『地球楕円赤道日食法』における記述。吉田(2005) p.298より孫引き。
- ^ 渡辺(1986) p.231
- ^ 嘉数(2016) p.121
- ^ a b c 嘉数(2005) p.315
- ^ 星埜(2010) p.49
- ^ 星埜(2010) p.15
- ^ 渡辺(1986) p.404
- ^ 渡辺(1986) p.287
- ^ 渡辺(2003) pp.116-117
- ^ 田尻佐 編『贈位諸賢伝 増補版 上』(近藤出版社、1975年)特旨贈位年表 p.32
- ^ 洋学史事典(1984) p.429
- ^ 大谷(1917) pp.694-695
- ^ 上原(1977) p.153
- ^ a b 中村(2008) p.100
- ^ 高橋至時『ラランデ暦書管見』と光行差
- ^ 中山(1972) p.476
- ^ 日本思想大系65(1972) pp.168-169
- ^ 吉田(2005) p.296
- ^ 吉田(2005) p.292
- ^ 著書『授時暦日食法論解』の記述。大谷(1917) p.680より孫引き。
- ^ 中山(2005) pp.381-382
- ^ a b 前山(1960) p.40
- ^ 中山(2005) p.383
- ^ 中山(1981) p.70
- ^ 嘉数(2011) pp.138-139
- ^ a b 嘉数(2011) p.139
- ^ 上原(1977) pp.205-206
- ^ 嘉数(2011) pp.139,141
- ^ a b 嘉数(2011) p.141
- ^ 上原(1977) p.153
- ^ a b 日本思想大系65(1972) p.169
- ^ a b 日本思想大系65(1972) p.171
- ^ 日本思想大系65(1972) p.168
- ^ 日本思想大系65(1972) p.170
- ^ a b 上原(1977) p.155
- ^ 大谷(1917) pp.675-767
- ^ 上原(1977) p.148
- ^ 渡辺(2003) p.200
- ^ 上原(1977) pp.156-159
- ^ 上原(1977) p.161
- ^ 上原(1977) pp.203-205
- ^ a b c 嘉数(2011) p.140
- ^ 上原(1977) p.205
- 1 高橋至時とは
- 2 高橋至時の概要
- 3 学問
- 4 至時と西洋天文学
- 5 脚注
「高橋 至時」の例文・使い方・用例・文例
- 株式会社高橋精密機器のシステム一課の池田と申します。
- 私、株式会社大村電子の顧問の高橋と申します。
- 予約係の高橋一郎氏に、予約確認のためあなたのクレジットカード番号を連絡して下さい。
- 高橋先生が宿題を出した。
- 高橋さんをご存知ですか。
- 高橋さんは君と一緒に、行くことに同意した。
- こちらに高橋さんという方はおいでになりませんか.
- 高橋のやつ, 会社の金を使い込むなんてどういうつもりなんだ.
- 高橋君宛の小包
- 高橋宛に小包を出す
- 高橋さんから電話がかかってきました
- お留守中高橋さんがお見えになりました
- 高橋あずさ2等陸曹は「立派に任務を果たし,PKOへの女性参加の先駆けになれれば。」と話した。
- 高橋選手のアテネへの第一歩
- シドニーオリンピックのマラソン金メダリスト,高橋尚子選手(30)が9月29日のベルリン・マラソンに出場する。
- 「ベルリン・マラソンは,五輪への準備を始めるレースとして申し分ない。コース設定も環境もすばらしい。」と高橋選手の監督である小出義雄監督は述べた。
- ベルリンでのレースの後,高橋選手は大阪国際マラソン(2003年1月)か名古屋国際マラソン(2003年3月)に出場する予定だ。
- 高橋選手は五輪の準備のために熟考がなされたことを説明した。
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