麻田剛立(あさだごうりゅう 1734-1799)
麻田剛立は、杵築藩の儒者綾部絅(けい)斎の四男として生まれ、医学を学びながら天文学、暦学を独学し、天明 6年(1786)の日食の予報を的中して世に知られた。
直弟子であった高橋至時の次男渋川景佑の記述によれば、剛立の郷里での日月食の観測は、宝暦 7年(1757)24歳の時から10数回にも及び天文学、暦学の実力はかなりのものになっていた。
明和 4年(1767)には杵築藩主の侍医となったが、勉学の時間惜しさに辞職を申し入れたが受け入れられず、安永元年(1772)に脱藩して大阪に出て、祖先の出身地の国東郡麻田村にちなんで、麻田を名乗った。その後、現在の大阪市東区本町で医業をしながら、更に天文観測などに没頭し研究を重ね、麻田流暦学を開いた。
寛政 7年(1795)幕府で改暦の儀があり、剛立に白羽の矢が立ったが、高齢を理由に辞退し門人の高橋至時と間重富を推挙した(最近になって、これは誤りであるといわれている)。この結果、二人は江戸に出て寛政の改暦に中心的役割を果たすことになり、その後忠敬との結びつくことになる。
剛立の功績は、「歴象考成」をベースにした暦学に関する著作と消長法(日・月・五惑星の運動に関係する常数が年月により変化すること)を加味した独自の暦学などの研究である。さらに特筆すべきことは、門下から高橋至時、間重富、西村太沖、山片蟠桃といった優秀な弟子を輩出したことである。この中には、測量と地図作成に関わりのある者が多く、剛立なくしては、至時の天文学の発展や忠敬の測量・地図作成がなかったともいえる。
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