高橋至時 高橋至時の概要

高橋至時

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/21 06:49 UTC 版)

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上野源空寺にある高橋至時墓。奥には伊能忠敬、手前には高橋景保の墓がある。再手前の石碑は幡随院長兵衛夫婦の墓碑案内板。

生涯

麻田剛立に師事

明和元年(1764年)、大坂定番同心の家に生まれた。字は子春、号は東岡・梅軒。通称作左衛門[1]安永7年(1778年)15歳の時、父である高橋徳次郎元亮の跡を継いで大坂定番同心となった[1][2]天明4年(1784年)、同心永田元左衛門清賢の娘である志勉(しめ)と結婚した。翌年に景保、2年後に景佑が生まれ、その後にさらに3人の子をもうけた。

幼いころから算学に興味をもっていた至時は、天明6年(1786年)ごろ、松岡能一に算学を学んだ[注釈 1][3]。そして暦学を学ぶため、天明7年(1787年麻田剛立(あさだごうりゅう)に師事した。

当時の日本の暦は宝暦暦を用いていたが、この暦は精度が悪く、宝暦13年(1763年)に起きた日食の予報を外してしまっていた[4]。一方でこの日食は在野の複数の天文家によって事前に予測されていて、その中の一人が麻田剛立であった。剛立はその後、中国や西洋の天文学を読み解いたうえで、さらに自らの理論も加味した独自の暦「時中暦(時中法)」を作成し、高い精度を誇っていたため、当時の人々の間で評判が高かった[5]。至時はこの剛立のもとで、同じころに入門した間重富とともに天文学・暦学を学んだ。その熱心さは、至時の家が火事で全焼した翌日にも、焼け跡で剛立や重富と暦学の議論を行うほどであった[6]

当時至時らが暦学を学ぶ際に参考にしていたのは、授時暦貞享暦などの日本・中国の暦法、および『暦算全書』、『天経或問』といった書物だった[6]。そしてその中でも重要視されたのが、『暦象考成上下編』であった。

『暦象考成上下編』は、何国宗・梅殻成らによって編纂された、西洋の天文学をまとめた書で、天体の運動についてはティコ・ブラーエによる円軌道を基軸としている。ところがその後、間重富は新たに『暦象考成後編』を入手した。本書は書名こそ同じ『暦象考成』であるが、著者も内容も異なるため、実質的には「上下編」とは別の書である[7]。『暦象考成後編』では太陽と月の運動を、円軌道ではなく、ヨハネス・ケプラーの唱えた楕円軌道で説明していた。この理論は当時の日本人にとっては革新的であり、かつ難解でもあったが、至時は剛立・重富と共に取り組んだ研究の結果、この理論を習得することができた[7]。こうして至時らの天文学の知識は当時の日本では他を抜きんでたものになってゆき、その評判は広く知られるようになっていった。

寛政の改暦

寛政7年(1795年)、至時は重富とともに、幕府から、改暦を行うための出府を命じられた[注釈 2]。至時は同年4月に江戸へ赴任し、4月28日に測量御用手伝、11月14日幕府天文方となった。一方で、10月には妻の志勉が29歳で死去した[8]。志勉は下級武士で薄給だった時代の至時を支え、家計をやりくりしながら至時の観測道具代を捻出しており、その良妻ぶりは後の世にも知られるようになる[9]。至時はこの後再婚することはなかった[10]

寛政8年(1796年)に至時は正式に改暦の命を受けた。そして9月に江戸を出て10月からは京都にて観測及び改暦作業に当たった[11]。これは、当時の改暦は京都の土御門家が形式的な責任者となっているため、改暦作業には土御門家の協力と承認が必要だったためである[11][12]。改暦に当たっての資料としては『暦象考成後編』を活用したが、同書には太陽系の5惑星(水星・金星・火星・木星・土星)の運動についての記述がなかったため、それらについては『暦象考成上下編』を参考にした。また加えて、麻田剛立によって理論づけられた消長法(太陽などの運動が年月を経るごとに少しずつ変化してゆくという説)も採用した[13]

寛政9年(1797年)10月、「暦法新書」8巻が提出され、至時らは改暦作業を終えた。この新暦は寛政暦と名付けられ、寛政10年(1798年)より施行された[11]。寛政暦は実質的に至時と重富の2人が中心となって作った暦であるが、2人は天文方となってから日が浅かったため、他の天文方、あるいは土御門家や陰陽頭らとの見解と折り合いをつけなければならず、至時らの理論が十分に生かされなかった部分もあった[14][15]

至時と忠敬

改暦のために江戸に向かった数か月後、至時の元に伊能忠敬が弟子入りを求めて訪れた。至時は19歳年上の忠敬に暦学や天文学を教えた。至時は毎日天体観測に熱を入れる忠敬を「推歩先生」と呼んだ[16]

忠敬は緯度1に相当する子午線弧長を求めることに興味をもち、それは至時の関心事でもあった(詳細は後述)。忠敬は深川の自宅から浅草の天文台までの距離を歩いて測量しその値をもとに大まかな値を求めたが、至時は、そのような短い距離で求めても意味がないと応じた。そして、正確な値を求めるならば、江戸から蝦夷ぐらいまでの距離が必要だと述べた[17][18]

この事がきっかけとなり、忠敬の蝦夷測量が行われ、さらにその後の日本全国の測量へとつながった。至時は蝦夷地測量に当たって幕府に許可を得たり、測量中に問題が起こった時には忠敬に助言を与えたりするなど、測量事業を支援した[19][20]

改暦後

改暦のために在京していた時から、至時の健康状態は勝れず、たびたび激しい咳をしていた[21]。改暦後も、咳は持病であると自ら称していて、体調の悪い日は外出できず、時には10日間臥せっていたこともあった[21]。現在では、このころから至時は結核を患っていたと推定されている[22]

このような状態であったが、改暦を成し遂げた至時の評判はますます高まり、幕府からの信頼も厚くなった。そのため至時は、改暦をつかさどる土御門家とのやりとりや、その他の雑務に追われるようになった[23]。さらに、前述のように、寛政暦は至時にとって満足のゆくものではなかったため、暦学の研究も続けた[24]

享和2年(1802年)に起こった日食では、寛政暦と15分のずれが生じた。このことを至時は残念がり、寛政暦の改良に向けて天体観測にも力を注いだ[25]。病気がちのなか、時には徹夜して研究を続ける至時に対し、間重富は、あなたの身には暦学の興廃がかかっているのだから、病気の時は休養に専念するようにとの手紙を送っている[26]。翌享和3年(1803年)には体調は回復し、全快ともいえる状態になった[26]

晩年

至時は、前野良沢司馬江漢らと交流し、研究のために西洋の天文書を入手しようとしていたが、専門的な書物の入手には至らないでいた[27]。しかし享和3年(1803年)、若年寄の堀田正敦から、ジェローム・ラランドが著した天文書ラランデ暦書を渡され、調査を命じられることになった。これを手にした至時は、「実ニ大奇書ニシテ精詳ナルコト他ニ比スヘキナシ」[28]と、同書の優れていることにすぐさま気付いた。さらに、この書を読み解けば、『暦象考成後編』には記されていなかった5惑星の運動などについても理解することができると感じ、解読につとめた[22]

『ラランデ暦書』は個人の所有物であったため、十数日後に所有者の元へと戻された。しかし至時は幕府に対し、同書を買い上げるよう強く求め、同書は7月に至時を含む幕府の天文方3名に下附された[29]

至時は日夜研究を続け、『ラランデ暦書』を元にして自らの見解を書き加えた『ラランデ暦書管見』の執筆に取り組んだ。この期間に残した研究のための稿本は、およそ2000ページ(1000丁)にもなる[30]。しかし寝食を忘れるほど熱心に注ぎ込んだ研究は、いったん回復傾向に向かっていた至時の体調を再び悪化させた。そして『ラランデ暦書』を手にした半年後の文化元年(1804年)に死去した[26]。享年41。遺体は上野源空寺に葬られている。

死後

至時の死後、『ラランデ暦書』の研究は天文方によって続けられ、文政9年(1826年)、『新巧暦書』としてまとめられた。『新巧暦書』の編集にあたっては、至時の『ラランデ暦書管見』も参考にされた[31]

伊能忠敬は至時の死後も測量を続け、日本全国の測量事業を完了させた。忠敬はその後の文政元年(1818年)、測量後の地図作成作業の途中で亡くなった[32]。遺言で忠敬は、師である至時のそばに葬ってほしいとの言葉を残したため[33]、源空寺に、至時と隣り合って墓石が置かれている[34]

至時の長男である景保は至時の死後、後継として天文方に任命された[35]。そして『ラランデ暦書』の翻訳事業や忠敬の測量事業にも関わった[31][36]が、シーボルト事件により文政12年(1829年)に獄死した。

次男の景佑は天文方として『新巧暦書』の編集にかかわり、その『新巧暦書』を元にした天保暦の作成にあたっても中心的な役割を果たした[31]

著書

至時には公刊された書物はないが、本の形でまとめられた著作は多く残している[37]

  • 『刪補授時暦交食法』(寛政元年)
  • 『寛政暦法』(全7冊、寛政9年、共著)
  • 『増修消長法』(寛政10年)
  • 『新考日食三法』(全3冊、寛政10年)
  • 『気朔筒法』(寛政11年)
  • 『新修五星法及図説』(全2冊、寛政12-享和3年)
  • 『赤道日食法不用月地高度説』(享和2年)
  • 『修正赤道日食法』(寛政12年稿、享和2年補)
  • 『新考交食法及図説』(全3冊、享和2年)
  • 『授時暦日食法論解』(享和2年)
  • 『暗乂利亜暦考』(享和2-3年)
  • 『海中舟道考』
  • 『ラランデ暦書管見』(全11冊、現存8冊、享和3年)

このほかに渋川景佑の残した目録に、書名が確認されている至時の著作が幾つか存在するが、それらの実物は発見されていない[38]


注釈

  1. ^ ただし渡辺敏夫は、至時が松岡に学んだというのは疑わしいとしている(渡辺(1986) p.209)。
  2. ^ 改暦について、幕府ははじめ麻田剛立を起用しようとしたが、剛立が高齢を理由に断り、代わりに至時と重富を推薦したといわれることが多い。しかし上原久は、当時幕府からの命令を断ることは死罪も免れ得ないことであるため通常はありえず、剛立が2人を推薦したという記録も見られないため、至時らは幕府から直接命を受けたと主張した(上原(1977) pp.138-140)。そして現在では後者の説も他の研究家などに受け入れられている(中村(2008) p.93)。
  3. ^ オランダ語の語学力については、文字と少しの名詞を知っているのみと言われているが、天文の専門用語はある程度理解していたのではないかという反論もある(上原(1977) pp.207-210)。
  4. ^ 至時はマイルを「里」と訳している。
  5. ^ ただし至時は天動説に基づき、太陽の公転軌道の半径を基準としている。

参照元

  1. ^ a b 嘉数(2016) p.105
  2. ^ 吉田(2005) p.291
  3. ^ 上原(1977) p.129
  4. ^ 日本学士院日本科学史刊行会編(1979) p.129
  5. ^ 大谷(1917) pp.670-671
  6. ^ a b 中村(2008) p.89
  7. ^ a b 吉田(2005) p.292
  8. ^ 上原(1977) p.218
  9. ^ 上原(1977) pp.215-217
  10. ^ 前山(1960) p.39
  11. ^ a b c 吉田(2005) p.293
  12. ^ 中村(2008) p.94
  13. ^ 上原(1977) pp.140-141
  14. ^ 大谷(1917) pp.673-674
  15. ^ 上原(1977) pp.142-143
  16. ^ 渡辺(2003) p.57
  17. ^ 渡辺(2003) p.80
  18. ^ 星埜(2010) p.27
  19. ^ 渡辺(2003) pp.83-84,115
  20. ^ 星埜(2010) p.37
  21. ^ a b 上原(1977) p.211
  22. ^ a b 吉田(2005) p.298
  23. ^ 上原(1977) pp.211-212
  24. ^ 嘉数(2016) p.117
  25. ^ 中村(2008) p.95
  26. ^ a b c 上原(1977) p.213
  27. ^ 嘉数(2016) p.118
  28. ^ 『地球楕円赤道日食法』における記述。吉田(2005) p.298より孫引き。
  29. ^ 渡辺(1986) p.231
  30. ^ 嘉数(2016) p.121
  31. ^ a b c 嘉数(2005) p.315
  32. ^ 星埜(2010) p.49
  33. ^ 星埜(2010) p.15
  34. ^ 渡辺(1986) p.404
  35. ^ 渡辺(1986) p.287
  36. ^ 渡辺(2003) pp.116-117
  37. ^ 洋学史事典(1984) p.429
  38. ^ 大谷(1917) pp.694-695
  39. ^ 上原(1977) p.153
  40. ^ a b 中村(2008) p.100
  41. ^ 高橋至時『ラランデ暦書管見』と光行差
  42. ^ 中山(1972) p.476
  43. ^ 日本思想大系65(1972) pp.168-169
  44. ^ 吉田(2005) p.296
  45. ^ 吉田(2005) p.292
  46. ^ 著書『授時暦日食法論解』の記述。大谷(1917) p.680より孫引き。
  47. ^ 中山(2005) pp.381-382
  48. ^ a b 前山(1960) p.40
  49. ^ 中山(2005) p.383
  50. ^ 中山(1981) p.70
  51. ^ 嘉数(2011) pp.138-139
  52. ^ a b 嘉数(2011) p.139
  53. ^ 上原(1977) pp.205-206
  54. ^ 嘉数(2011) pp.139,141
  55. ^ a b 嘉数(2011) p.141
  56. ^ 上原(1977) p.153
  57. ^ a b 日本思想大系65(1972) p.169
  58. ^ a b 日本思想大系65(1972) p.171
  59. ^ 日本思想大系65(1972) p.168
  60. ^ 日本思想大系65(1972) p.170
  61. ^ a b 上原(1977) p.155
  62. ^ 大谷(1917) pp.675-767
  63. ^ 上原(1977) p.148
  64. ^ 渡辺(2003) p.200
  65. ^ 上原(1977) pp.156-159
  66. ^ 上原(1977) p.161
  67. ^ 上原(1977) pp.203-205
  68. ^ a b c 嘉数(2011) p.140
  69. ^ 上原(1977) p.205


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