伊能忠敬・高橋至時父子との交流
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「堀田正敦」の記事における「伊能忠敬・高橋至時父子との交流」の解説
正敦の在任中、伊能忠敬が測量隊を率いて日本中を歩き回り、大日本沿海輿地全図を作り上げたことは有名だが、その仕事を後押ししたのは正敦だった。 きっかけは定信の祖父・第8代将軍徳川吉宗が暦の改訂に取り掛かったことで、定信が祖父の果たせなかった事業を成功させるべく継続したが、彼が老中首座を辞任した後は正敦が後任の老中首座松平信明らと引き継ぎ、寛政7年(1795年)に間重富・高橋至時の2人を召し出し天文方へ採用、改暦事業に当たらせた。寛政9年(1797年)10月に2人の努力で改暦は果たされ翌10年(1798年)に寛政暦が施行されたが、後にズレが判明したため改暦事業が復活することになる。 一方、重富と至時の江戸出府と前後して伊能忠敬も江戸へ移り住み、至時に頼み込んで弟子になったが、この一件は正敦と関係が深い桑原隆朝の介入があったと推測されている。桑原は仙台藩医で仙台藩出身の正敦と繋がりがあり、忠敬の3人目の妻ノブの父親でもあるため、忠敬に正敦と至時が進めている改暦事業を話し、正敦に口添えした上で至時に忠敬を推薦したのではないかとされている。 忠敬は至時の下で天文学を勉強、やがて寛政12年(1800年)から測量隊を率いて日本の測量と地図作成が始まっていくが、第1回目の測量から桑原が忠敬に向けて幕府へ次の測量申請を勧めている。桑原はある人物の意向で手続きを伝えているが、この人物は正敦とされ、幕府はまだ援助出来ないが、地図がよく出来ていることと測量継続を内密に忠敬へ伝えるため、桑原を介して連絡を取っていたのではないかと推測されている。事実、正敦と桑原はこの後忠敬へ指示を送り続け、忠敬も2人と連絡を取り合っている。 正敦の地図作成事業の関わりは第2回目の測量計画の修正を忠敬へ指示、文化元年(1804年)に東日本部分が作られた地図を拝見、忠敬を小普請組へ編入させて幕臣に登用したことなどが挙げられる。また国防問題に関心があり、引退後も幕府に影響力がある定信との話し合いがあったとされ、地図作成が幕府の公式事業に格上げされるなど定信の関与が推定される場面もあり、文化3年(1806年)に第5回測量で隊員達が忠敬の不在中に揉め事を起こしたことが報告された際、忠敬に注意したが穏便な処置で済ませている。こうした出来事を経て測量は完遂され、忠敬死後の文政4年(1821年)に至時の息子景保が完成した大日本沿海輿地全図を提出、展示された後に紅葉山文庫に保管された。なお、地図の保管は11月だったが、先立って7月に一部の地図が正敦に預けられ、家臣を通して紅葉山文庫に保管されたことが記録されている。 景保とは『観文禽譜』編纂の際に情報提供してもらうだけでなく、外交に関する諜報に従事させたと推定されている。正敦の命令で彼はオランダ商館医フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと情報交換し合ったともいわれ、それを示す証拠は見つかっていないが、シーボルト事件で獄死したにも拘らず『観文禽譜』に載っているエトピリカの項目に彼の名前が残されていること、その記述から外国の本の翻訳作業に取り組んでいたことが書かれていたこと、文政9年(1826年)に江戸へ参府したシーボルトへ正敦がペンギン(観文禽譜ではヘングイン)について剥製を見たことがある栗本丹洲を通して質問したことから、景保とシーボルトの関係に正敦が深く関わっていたことが推察される。不遇だった最上徳内が蝦夷地探検を再開出来たのも正敦が関与したといわれ、彼にとって蘭学は図鑑編纂という趣味だけでなく、大槻玄沢を通した外国本翻訳と情勢把握、蝦夷地探検など国防と外交にも必要な知識だった。
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