伊能忠敬の測量と『ラランデ暦書』
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「ラランデ暦書」の記事における「伊能忠敬の測量と『ラランデ暦書』」の解説
『ラランデ暦書』から得られた天文知識は、伊能忠敬による日本測量の際に活用された。 忠敬が日本全国を測量しようと考えた当初の目的は、緯度1度に相当する子午線弧長を求めることであった。忠敬は測量中に測定を行い、子午線一度は28里2分という結果を得た。しかし忠敬の師匠である至時は、測量では土地の高低差による誤差が生まれるおそれがあり、自らが書物を元に得た結果とも異なるとして、忠敬の測定値には信頼を置かなかった。だが後に『ラランデ暦書』を手にした至時は、地球は完全な球体ではなく、南北方向につぶれた扁球形であることを知った。さらに、『ラランデ暦書』に掲載されていた子午線1度の値は忠敬の実測値とほぼ一致しており、このことから忠敬の測定の正確さが確かめられ、忠敬と至時は喜び合った。 また、『ラランデ暦書』には、ガリレオ衛星の食を利用した経度の求め方が記載されていた。木星の衛星が木星の表面を通過する時間を異なる2か所で測定して、その時間のずれから経度を求める。至時はこの方法を理解し、至時の死後は間重富と高橋景保の手によって引き継がれ、食の予報表が作成された。そして文化2年(1805年)から行われた忠敬一行の西日本測量において、この木星の衛星を使った方式や、あるいは月食などを使った方式により観測を行い、経度が求められた。しかし天候や観測技術の問題があり、さらに浅草の天文台の火災により江戸での観測データが失われたこともあって、忠敬らによる経度の算出は成功したとは言い難い。そのため忠敬が作成した大日本沿海輿地全図は、現在の地図と比較すると、経度方向に大きなずれが見られる。
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