高橋至時と『ラランデ暦書管見』とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 高橋至時と『ラランデ暦書管見』の意味・解説 

高橋至時と『ラランデ暦書管見』

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/08 14:23 UTC 版)

ラランデ暦書」の記事における「高橋至時と『ラランデ暦書管見』」の解説

高橋至時は、『ラランデ暦書』日本に伝わる以前寛政9年1797年)に行われた寛政改暦たずさわっていた。この改暦西洋天文学取り入れた初めての改暦で、太陽・月の運行に関してケプラー楕円軌道論を取り入れている。しかしこの改暦で主に使用した天文書『歴象考成後編』には、太陽系5惑星水星・金星火星木星土星)の運動記載されていなかったため、これらの運動についてケプラー以前唱えられティコ・ブラーエ円軌道論を採用せざるを得なかった。そのため至時にとって、この改暦は満足のゆくものではなかった。 至時は改暦後も惑星運動について研究続けた。そのさなか、至時は堀田摂津守正敦からラランデ暦書渡され調査命じられた。これを見た至時は、これこそが自分求めていた資料だと感じた。しかし同書個人所有物であったため、十数日後にはふたたび所有者元に戻された。至時はこの本が手元にあった間に、同書一部訳したうえで自らの見解書き加え『ラランデ暦書管見』第1巻としてまとめた。また同時期に、『ラランデ暦書用法解』も執筆した。 至時は、本書は非常に重要な資料であるから幕府買い上げるように強く求め幕府了承した買い上げについては、所有者80両という法外な値段要求したために手間取ったが、享和3年7月1803年)には、再び至時は本書手にすることができた。 至時は引き続き『ラランデ暦書』解読につとめ、『ラランデ暦書管見』執筆続けた。もともとオランダ語をほとんど読むことができなかった至時であったが、この作業への力の入れ方寝食を忘れるほどだったという。しかし熱中しすぎるあまり至時は持病悪化し『ラランデ暦書』を再び手にした半年後の文化元年1月1804年)、41歳死去した

※この「高橋至時と『ラランデ暦書管見』」の解説は、「ラランデ暦書」の解説の一部です。
「高橋至時と『ラランデ暦書管見』」を含む「ラランデ暦書」の記事については、「ラランデ暦書」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「高橋至時と『ラランデ暦書管見』」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「高橋至時と『ラランデ暦書管見』」の関連用語

高橋至時と『ラランデ暦書管見』のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



高橋至時と『ラランデ暦書管見』のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのラランデ暦書 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS