高橋至時と『ラランデ暦書管見』
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「ラランデ暦書」の記事における「高橋至時と『ラランデ暦書管見』」の解説
高橋至時は、『ラランデ暦書』が日本に伝わる以前の寛政9年(1797年)に行われた寛政の改暦にたずさわっていた。この改暦は西洋の天文学を取り入れた初めての改暦で、太陽・月の運行に関してはケプラーの楕円軌道論を取り入れている。しかしこの改暦で主に使用した天文書『歴象考成後編』には、太陽系の5惑星(水星・金星・火星・木星・土星)の運動は記載されていなかったため、これらの運動についてはケプラー以前に唱えられたティコ・ブラーエの円軌道論を採用せざるを得なかった。そのため至時にとって、この改暦は満足のゆくものではなかった。 至時は改暦後も惑星の運動について研究を続けた。そのさなか、至時は堀田摂津守正敦からラランデ暦書を渡され、調査を命じられた。これを見た至時は、これこそが自分の求めていた資料だと感じた。しかし同書は個人の所有物であったため、十数日後にはふたたび所有者の元に戻された。至時はこの本が手元にあった間に、同書の一部を訳したうえで自らの見解を書き加え、『ラランデ暦書管見』第1巻としてまとめた。また同時期に、『ラランデ暦書表用法解』も執筆した。 至時は、本書は非常に重要な資料であるから幕府が買い上げるように強く求め、幕府も了承した。買い上げについては、所有者が80両という法外な値段を要求したために手間取ったが、享和3年7月(1803年)には、再び至時は本書を手にすることができた。 至時は引き続き『ラランデ暦書』の解読につとめ、『ラランデ暦書管見』の執筆を続けた。もともとオランダ語をほとんど読むことができなかった至時であったが、この作業への力の入れ方は寝食を忘れるほどだったという。しかし熱中しすぎるあまり至時は持病が悪化し、『ラランデ暦書』を再び手にした半年後の文化元年1月(1804年)、41歳で死去した。
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