かつしか‐ほくさい【葛飾北斎】
葛飾北斎
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葛飾 北斎(かつしか ほくさい、旧字体:葛飾󠄁 北齋、宝暦10年9月23日〈1760年10月31日〉? - 嘉永2年4月18日〈1849年5月10日〉)は、江戸時代後期の浮世絵師である[1]。19歳で勝川派の頭領勝川春章に師事し絵師としての活動を始めて以降、安永8年(1779年)から嘉永2年(1849年)までの70年間に渡って、人間のあらゆる仕草や、花魁・相撲取り・役者などを含む歴史上の人物、富士山・滝・橋などの風景、虫、鳥、草花、建物、仏教道具や妖怪・象・虎・龍などの架空生物、波・風・雨などの自然現象に至るまで森羅万象を描き、生涯に3万4千点を超える作品を発表した[2][3]。その画業分野も版画(摺物)のほか、肉筆浮世絵、黄表紙、読本、狂歌本、絵手本、春画など多岐に渡った(→代表的な作品)。
- 1 葛飾北斎とは
- 2 葛飾北斎の概要
葛飾 北斎(かつしか ほくさい)
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「百日紅 (漫画)」の記事における「葛飾 北斎(かつしか ほくさい)」の解説
通称、鉄蔵。55歳。既にこの時代を代表する人気絵師としての地位を確立しながら、汚らしい長屋に起居し、三女のお栄を片腕に創作活動を続ける。気が短く、粋を好み、洒落っ気たっぷりな典型的江戸っ子。既に老境に入っているが、政女を相手に色恋でも健在ぶりを発揮し、公私ともに充実している。息子の多吉郎(お栄の弟)は御家人に養子に入り順風満帆だが、一門を継いだ長女の婿(柳川重信)とは折り合いが悪く、末娘の猶は盲目で病弱と、決して家庭円満とは言い難い。金銭や自らの屋号に全く執着しない一方で、徳川将軍家からの招きを受けた際には功名心を垣間見せる一面も持つ。ひねくれ者の皮肉屋で、気に入らない仕事では法外な報酬をふっかけるなど、版元泣かせ。滝沢馬琴や山東京伝といった友人を持つ。
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葛飾北斎
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「磯部磯兵衛物語〜浮世はつらいよ〜」の記事における「葛飾北斎」の解説
江戸で大人気の浮世絵師。鉄棒ぬらぬらのペンネームで春画も描いている。磯兵衛は彼の春画の大ファン。
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葛飾北斎
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そして、数多くの名僧を輩出した以上に法性寺の名を高めたのが、北辰妙見大菩薩信仰の隆盛であった。日顓が住持していた頃はまさしくその全盛期であったが、この頃に度々参詣していたと伝えられているのが葛飾北斎である。寺伝によれば、寛政6年(1794年)に勝川派を破門された北斎が生活の困窮と画業の大成を願い、当時“柳嶋の開運の妙見様”で名高かった柳嶋妙見堂に21日間通ったという。そして満願の日の帰路、突如雷に打たれて失神。再び眼を開いた時から運が開けて以来、度々参詣に訪れたと伝えられている。一説によれば「北斎辰政」の名乗りは妙見菩薩の冠辞「北辰」に肖ったものと言われ、銘「柳嶋妙見堂」という絵を残している事からもその篤信ぶりが窺える。更には、当時の柳嶋妙見堂の賑わいが『江戸名所図会』 にも取り上げられており、歌川広重や歌川芳員も浮世絵に残している。 また広重を始め歌川豊国・初代市川左團次・6代目尾上菊五郎・6代目桂文治などが芸道の開運を願って日参したと伝えられ、落語「中村仲蔵(蛇の目傘)」や歌舞伎「於染久松色読販」などでは柳嶋の妙見参りが登場する。
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葛飾北斎(1760年 - 1849年)
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「曲亭馬琴」の記事における「葛飾北斎(1760年 - 1849年)」の解説
馬琴作品に最も多く挿絵を描いた浮世絵師。二人はかなり親しく、文化3年(1806年)の春から夏にかけての3,4ヶ月にかけて、北斎は馬琴宅に居候していたようだ。文化年間の末から両者の合作は無くなったため、二人は絶交したという説もある。しかし、絶交説の初出はどれも明治時代の資料であり、同時代の資料には殆ど見られない。コンビ解消の理由は、北斎の名声が上がり挿絵以外の仕事が忙しくなったためとも、二人の原稿料が上がってコストが増えたのを版元が敬遠したためとも推測される。
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