梅暮里谷峨とは? わかりやすく解説

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うめぼり‐こくが【梅暮里谷峨】

読み方:うめぼりこくが

1750〜1821]江戸後期洒落本作者上総(かずさ)久留里藩士。通称反町三郎助。作「傾城買二筋道」「廓(さと)の癖」など。


梅暮里谷峨

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 18:35 UTC 版)

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梅暮里 谷峨(うめぼり こくが、1750年寛永3年)- 1821年9月28日文政4年9月3日))は、江戸時代中期から後期にかけて活躍した戯作者藩士。通称及び幼名は反町三郎助、後に与左衛門。別号に梅月堂梶人、蕣亭、遊里山人等。谷我とも表記される。梅暮里は本所埋堀の藩邸にちなみ、谷峨は母方の姓名に拠る。没後に江戸幕府旗本であった萩原乙彦が2代目梅暮里谷峨を名乗っており、「初代」として区別される。

経歴

経歴は『新版近世文学研究事典』に拠る[1]

上総久留里藩士の子として生まれる。1785年(天明5年)36歳で出仕、1794年(寛政6年)45歳で家督を相続して馬廻席(50石取)になり、後に江戸詰め大目付。1788年(天明8年)梅月堂梶人の名で洒落本の初作『青楼五雁金』を執筆し、1790年(寛政2年)続編『染抜五所紋』、梅暮里谷峨の名で『文選臥座』を刊行。その後、約7年著作がなく、1798年(寛政10年)『傾城買二筋道』から執筆活動を再開、末期の洒落本界を牽引した。

なお、伝記に不明な部分が多く、梅月堂梶人を谷峨と同一人物とみなす尾崎久彌説に対して、梅月堂梶人や遊里山人は谷峨と別人とする棚橋正博説が存在する。

主な作品

  • 『青楼五(ッ)雁金』- 1788年(天明8年)刊行。梅月堂梶人名義。
  • 『染抜五所紋』- 1790年(寛政2年)刊行。
  • 『文選臥座』 - 1790年(寛政2年)刊行。梅暮里谷峨名義の合作。
  • 『傾城買二筋道』- 1798年(寛政10年)刊行。洒落本と人情本の概念を持っている。
  • 『郭(廓)の癖』- 1799年(寛政11年)刊行。
  • 『白狐通』- 1800年(寛政12年)刊行。

脚注

  1. ^ 岡本勝・雲英末雄 『新版近世文学研究事典』 おうふう、2006年2月、139頁。 

出典




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