山口蓬春とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 固有名詞の種類 > 人名 > 美術家 > 画家 > 日本の画家 > 山口蓬春の意味・解説 

やまぐち‐ほうしゅん【山口蓬春】


山口蓬春

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/30 10:03 UTC 版)

山口 蓬春
(やまぐち ほうしゅん)
山口蓬春(1936年)
生誕 山口三郎[1]
1893年10月15日[1]
北海道松前郡松城町
死没 (1971-05-31) 1971年5月31日(77歳没)[1]
神奈川県三浦郡葉山町[1]
墓地 鎌倉霊園
国籍 日本
教育 東京美術学校[1]
出身校 高輪中学校
著名な実績 日本画
代表作 「三熊野の那智の御山」[1]
「緑庭」[1]
流派 当初復古大和絵調、のち洋風表現[1]
運動・動向 六潮会[1]
配偶者 山口春子(齋藤光園)
受賞 帝国美術院賞
1926年 「三熊野の那智の御山」
文化勲章
1965年
文化功労者
1965年
公式サイト www.hoshun.jp
選出 日本芸術院会員
日展運営会理事
日展顧問
メモリアル 山口蓬春記念館
活動期間 1929年 - 1970年
影響を受けた
芸術家
松岡映丘[1]
影響を与えた
芸術家
加藤東一(弟子)
佐藤圀夫(弟子)
三尾彰藍(弟子)

山口 蓬春(やまぐち ほうしゅん、1893年10月15日 - 1971年5月31日)は、大正時代から昭和時代後期にかけて活躍した日本画家。本名、三郎(さぶろう)。文化勲章受章者。

経歴

同項目の多くは後述する「山口蓬春記念館」公式サイト内の「年譜」による。

北海道松前郡松城町(現・松前町)生まれ。日本銀行員だった父の転任に伴って松前や札幌に住んだ後、1913年東京府(現東京都高輪中学校を卒業後、1年間の志願兵として帝国陸軍に従軍した後に除隊し、1915年東京美術学校(現東京芸術大学)に進学。当初は西洋画学科だったが、1918年に中途退学の上で日本画学科へ再入学し、松岡映丘に師事し、大和絵を習得した。この時期から「蓬春」の号を用いた。1923年に同校を卒業後、1924年に映丘が設立した新興大和絵会に参加する。本名の三郎と蓬春の2つの雅号を使いながら制作活動を続け1926年帝国美術院賞受賞。同年には同門の狩野光雅から紹介された齋藤春子[2]と結婚。

1929年帝展審査員、1930年には帝国美術学校(現在の武蔵野美術大学の前身)教授に就任。同年に福田平八郎中村岳陵らと「六潮会」を設立し、翌1931年には新興大和絵会が解散し、1935年に蓬春は帝展審査員や帝国美術学校教授を辞任し、独自の制作活動を強めた。太平洋戦争大東亜戦争)期には戦争遂行に協力し、1943年には横山大観を会長とした日本美術報国会で日本画部の幹事長を務めた。

1945年4月、前月の東京大空襲を受けて東京都世田谷区祖師谷[3]の自宅を離れ、山形県東置賜郡赤湯町(現南陽市)に祖開。8月の終戦後も帰京できず、かつての自宅も買い戻せなかったため、1947年に神奈川県三浦郡葉山町にあった山﨑種二の別送を提供されて転居。1948年には同町内で住宅を購入し、終生同地に居住した。同邸は祖師谷の旧邸を設計した吉田五十八が手を加え、画室などが設置された。葉山へ転居した蓬春は、昭和天皇の侍従長入江相政と懇意にしていた縁で、葉山御用邸に赴き香淳皇后と絵画の話をすることもあった。蓬春自身が考案した揮毫机と椅子が入江の目に留まり、同様のものが作られ、香淳皇后が日本画を制作する時に使用した。

戦後も蓬春は重用され、1950年日展運営会参事、日本芸術院会員、1954年日展運営会理事、1958年日展常務理事、1965年文化勲章受章、文化功労者。1969年日展顧問。同年には弟子の橋本明治とともに4年がかりで取り組んだ皇居宮殿正殿松の間杉戸『楓』が完成した。1970年には「喜寿記念 山口蓬春展」が横浜高島屋で開催されるなど、晩年まで蓬春の創作は続いた。1971年、蓬春は胃癌のために病没。葬儀委員長は吉田五十八が務めた。

山口蓬春記念館

妻の春子は蓬春の没後に葉山の邸宅や作品を継承し、1985年には蔵書や作品群などを鎌倉市神奈川県立近代美術館[4]に寄贈。邸宅などは1990年に東海旅客鉄道(JR東海)が運営する「財団法人ジェイアール東海生涯学習財団」[5]に寄贈され、公開に向けた改装を経て、1991年10月15日に葉山の旧邸宅で「山口蓬春記念館」が開設された。同年11月11日に春子が死去。その後も記念館は運営され、蓬春作品を中心とした美術展示を続けている。

画風は西欧絵画の日本的表現と見られる。

著書など

  • 新日本画風景の第一歩 アトリヱ叢書 アトリヱ社 1932
  • 現代名家素描集 第1輯 山口蓬春自選 植物篇 芸艸堂 1940
  • 新日本画の技法 美術出版社 1951
  • 山口蓬春自撰画集 日本美術新報社 1959
  • 山口蓬春自選展図録 三彩社 1963
  • 山口蓬春作品集 朝日新聞社 1973
  • 現代日本の美術 3 鏑木清方・山口蓬春 座右宝刊行会編 集英社 1976
  • 山口蓬春素描集 JR東海生涯学習財団 2003
  • 山口蓬春日記 第1-3巻 山口蓬春記念館 2004-08

関連人物

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「山口蓬春」(2015年12月14日)、2018年11月10日閲覧。
  2. ^ 春子は『齋藤光園』として北澤楽天邸に住み、平福百穂に師事して日本画を学んでいた女性だった。2016年には山口蓬春記念館で企画展が開かれ、春子(光園)の作品も公開された。
  3. ^ 同邸はその後に解体され、跡地は1956年に東京都が設置した「祖師谷団地」の一部となった。同地は現在でも東京都住宅公社の「祖師谷住宅」として現存する。
  4. ^ 2003年に同美術館は葉山にあった旧高松宮別邸を利用して「葉山館」を開設し、山口蓬春記念館と近接した(記念館の最寄りバス停名が「三ヶ丘・神奈川県立近代美術館前」)。
  5. ^ 2009年に公益財団法人となり、「公益財団法人JR東海生涯学習財団」として同館の運営も継続。

関連項目

  • 東海旅客鉄道(JR東海) - 上記の通り、彼のメモリアル施設である「山口蓬春記念館」が、JR東海の関連団体である公益財団法人JR東海生涯学習財団により運営されている。

外部リンク




山口蓬春と同じ種類の言葉


固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「山口蓬春」の関連用語

山口蓬春のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



山口蓬春のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
株式会社思文閣株式会社思文閣
Copyright(c)2025 SHIBUNKAKU Co., Ltd. ALL RIGHTS RESERVED.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの山口蓬春 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS