1757年の戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 02:48 UTC 版)
「ブラッディクリークの戦い (1711年)」の記事における「1757年の戦い」の解説
アン女王戦争が終わるまで、アナポリスロイヤルはイギリスの支配下にあったが、アカディア人とインディアンは、1713年のユトレヒト条約で平和が訪れ、アカディアが正式にイギリス領となってからも抵抗を続けた 。この抵抗を活気づけたのは、戦後、イギリスがアカディアの土地と自由を侵略したことに対しての、フランス側の奪還の思いであり、ユトレヒト条約の当事者とならなかったアベナキ、ミクマク両部族に対する懸念もあった。インディアンたちの対イギリス抗争は、1720年代のダマー戦争と発展した。これは主にニューイングランド北部での戦争だったが、ノバスコシアのイギリス人入植地も攻撃された 。アカディア(ノバスコシア)をめぐる英仏の対立は、1750年代のフレンチ・インディアン戦争、そしてアカディア人追放まで解決の目を見なかった。そして、ブラッディクリークは、フレンチ・インディアン戦争中の1757年に再び戦闘の舞台となった。 この場所はその後カナダ国定史跡に認定された。
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