1757年-1773年 コンサートマスター
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「クリスティアン・カンナビヒ」の記事における「1757年-1773年 コンサートマスター」の解説
1757年の春にシュターミッツがこの世を去ると、カンナビヒはマンハイムへ呼び戻されてカール・ヨーゼフ・トエスキと共にコンサートマスターの職を引き継ぐことになった。 1759年、カンナビヒはプファルツ=ツヴァイブリュッケン公国で王妃付の女官だったマリア・エリザベート・デ・ラ・モッテ(Maria Elisabeth dela Motte)と結婚した。2人は6人の子に恵まれ、そのうち息子のカール・カンナビヒは作曲家として活躍した。1777年11月から1778年3月まで、彼らの娘のローゼ(Rose)はモーツァルトから教えを受けており、彼から『ピアノソナタ第7番』の献呈を受けている。カンナビヒが生きた時代は啓蒙時代の真っただ中であり、時代の空気が社会階層間の隔たりを越えることを認めるのみならず後押しすらしていたが、平凡な生まれの男性が地位の高い女性と結婚することはいまだ一般的ではなかった。この婚姻関係がカンナビヒにとって重要かつ得難い結果をもたらしたということになる。 ツヴァイブリュッケン近郊の公爵クリスティアン4世はカンナビヒを気に入り、注目して援助を施すなど寵愛した。1764年、カンナビヒは公爵に伴って彼の宮殿があるパリへ移動した。マイハイムの音楽や音楽家はパリの聴衆に人気があった。カンナビヒはこの外遊の間に、1763年11月から1764年4月までパリに滞在していた、一家でヨーロッパ巡業中のモーツァルトに出会っている。1760年代と1770年代を通してカンナビヒは頻繁にパリを訪れており、この街のコンセール・スピリチュエルにおいて自作曲が演奏され、また交響曲や三重奏曲の楽譜が出版された。この期間以降のカンナビヒ作品の大半はパリで出版されている。
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