1751年の地震
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1751年5月21日(寛延4年/宝暦元年4月26日)丑の刻(午前2時頃)に関川東岸の高田平野(頸城平野)、現在の新潟県上越市中央部を中心に被害をもたらした地震である。宇佐美龍夫による推定では、マグニチュード7.0から7.4相当とされている。宝暦高田地震、或いは越後・越中地震とも称される。 震央は北緯37度06分 東経138度12分 / 北緯37.1度 東経138.2度 / 37.1; 138.2付近と推定されているが、別な研究では青田難波山の難波山背斜南部とする説もある。この地震による死者は、資料によって異なり、1100人から2000人程度であったとされる。高田平野周辺には、平野東西両縁に沿って活断層が連続的に存在しているが、高田平野西縁断層系で発生したと考えられている。 この地震による代表的な被害は、名立区(現:新潟県上越市)の海岸段丘が、地すべりにより崩れ落ち、406人が死亡した「名立崩れ」など、多大な被害をもたらしている。これにより高田藩は江戸幕府に金銭面での救済を求めている。 4月27日の余震で潰家が発生したほか、9月3日にかなりの余震があった。
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