1750年代以前
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 07:13 UTC 版)
有史以前のショーニーの起源は極めて不詳である。他のアルゴンキン語族の部族はショーニーを彼らの最南端の支族と見なし、他のアルゴンキン語族には「南」を意味する「shawano」というよく似た単語がある。しかし、ショーニー語の「shawan」という語幹は「南」ではなく、「(天気が)穏やかな、暖かな」という意味を持つ。あるショーニーの神話の中には、「Shawaki」が南の神を表している。ある学者は、ショーニーはオハイオ・カントリーの有史以前のフォート・エンシェント文化の人々の末裔と推測しているが、他の学者は異議を唱えており、決定的な証拠はひとつも発見されていない。 1670年以前のある時、 ショーニーの集団はサヴァンナ川地域に移住していた。チャールズタウンを本拠地としたカロライナ植民地のイギリス人は、1674年頃にこれらのショーニーと最初に接触した。その後は長い同盟関係が形作られた。当初サヴァンナ川のショーニーは、カロライナのイギリス人に「サヴァンナ・インディアン」として知られていた。時を同じくして、他のショーニーの集団もオハイオ・カントリーの南と東のフロリダ、メリーランド、ペンシルベニア、および他の地域へと移住した。歴史家のアラン・ギャレイは、17世紀中庸から後半のこのショーニーの移住者たちは、1640年代に始まったビーバー戦争によって恐らく追いやられたと推論する。ショーニーは彼らの広範囲にわたる入植地と移住、彼らの頻繁な長い距離の他のインディアンの集団への訪問で知られるようになった。彼らの言語は数々の部族の間で共通言語となり、そのことはショーニーが経験したこととともに、ヨーロッパ人とヨーロッパ系アメリカ人の拡大に対する、多部族にわたるインディアンの抵抗を生み出し持続させるときの指導者になることを助けた。 1752年より前に、彼らはバージニア州ウィンチェスター近くのショーニースプリングスを拠点にして、後の酋長コーンストークの父親がそこに王宮を持った。ある時点で、彼らは現在ウェストバージニア州、オハイオ州南部、ケンタッキー州北部となっているオハイオ・カントリーに居住した。 イロコイは後に征服によって得た権限でオハイオ・カントリーの領有を主張し、ショーニーとデラウェアを従属した部族としてそこに再度住み着いた人々と見なした。多くのイロコイは当時西にも移住し、彼らはミンゴ(w:Mingo)として知られるようになった。ショーニー、デラウェア、ミンゴのこれら3つの部族は、オハイオ・カントリーで密接に関わるようになった。
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