1750年代の北アメリカ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:05 UTC 版)
「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「1750年代の北アメリカ」の解説
ミシシッピ川以東の北アメリカは、イギリスとフランスの所有権争いが激しかった。 フランス系住民の人口は、当時約7万5千人で、セントローレンスバレー沿いに集中しており、その他にはアカディア(現在のノバスコシア)やロワイヤル島(現在のケープブレトン島)に住んでいた。そしてわずかな人数がニューオーリンズやミシシッピ川流域の入植地にいた。フランス人の毛皮交易者は、セントローレンス川やミシシッピ川の全域の連水経路を通って、地元のインディアンたちと交易をした。インディアン女性と結婚することもしばしばあった。 イギリスの入植地は150万人の人口がいて、南はジョージア植民地から、北はノバスコシアやニューファンドランド島までの、北アメリカ大陸東部に沿って広がっていた。 ヌーベルフランスとニューイングランドの間のかなり広大な土地は、インディアンによって支配されていた。北はミクマク族とアベナキ族が、ノバスコシアやアカディアの一部、ヌーベルフランスの東部や現在のメインを支配していた。イロコイ連邦は現在のニューヨーク州の北部の大部分とオハイオ領土(オハイオカントリー)を支配していたが、オハイオカントリーにはレナペ(デラウェア)、ショーニー、ミンゴの諸族も住んでいた。レナペ、ショーニー、ミンゴはイロコイ連邦の管理下にあり、合意をする上での権限が制約されていた。内陸のかなり南にはカタウバ、クリーク、チョクトー、そしてチェロキーの諸族が住んでいた。 戦争が勃発した時、ヌーベルフランスはインディアンたちの交易網を利用して アベナキ、二ピシング、さらに西の五大湖周辺のオジブワ、フォックス、チョクトー族などがフランスに与した。いっぽうでイギリスは、イロコイ連邦を味方に引き入れたが、カタウバ族とチェロキー族、そしてオハイオ領土のデラウェアやショーニー族(オハイオインディアン)とも同盟した。しかし、イギリスは、1758年にチェロキー族とアングロ・チェロキー戦争を引き起こした。同じ1758年の10月、ペンシルベニアの行政府はイーストン条約の交渉に成功した。これはオハイオカントリーの多くの部族に、フランスとの同盟を破棄して中立を保つのと引き換えに、ペンシルベニア植民地から自分たちの土地を守るというものだった。 北アメリカ東部におけるスペインの植民地はフロリダに限定されていた。キューバと他の西インド諸島の領土も支配していたが、七年戦争ではこういったところも軍事目標となった。フロリダは人口が少なく、サンオーガスティンとペンサコーラにわずかな集落があった。 戦争勃発当時は、北アメリカにフランスの正規兵はおらず、イギリスの正規軍もわずかだった。ヌーベルフランスは、一部森林地帯での戦闘経験を摘んだ植民地の正規兵であるトゥループ・ド・ラ・マリンで防衛しており 必要な時には民兵を召集した。イギリス領アメリカの植民地は、インディアンの襲撃に備えて、あまり訓練を積んでいない民兵を召集したが、いかなる常備軍も持っていなかった。
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