メソジスト派牧師
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1884年(明治17年) 帰国する。 1885年(明治18年) 再び渡米する。当時、移民した日本人の酒癖の悪さ、愚行にへきえきした現地人から日本人排斥運動が勃発しており、社会問題となっていた。美山は外交官でハワイ州領事 安藤太郎に出会い、禁酒こそが日本人を救う唯一の手段であることを説き、婦人の「酒樽事件」もあって安藤太郎は改心。また夫妻をキリスト教へ導いた。 1888年(明治21年) ハワイのホノルルにハリス合同メソジスト教会を創立。 1890年(明治23年)2月 帰国。 1890年(明治23年) 名古屋メソジスト教会(現・日本基督教団名古屋中央教会)の牧師になる。 1893年(明治26年)4月 銀座美以教会(現・日本基督教銀座教会)に転任。初代牧師・小方仙之助の後をついで、第2代目の牧師になる。同年。外交官、安藤太郎、小児科医師 角倉賀道、日本キリスト教婦人矯風会とともに「日本禁酒同盟」を設立。全国の小学校への「禁酒・禁煙」を説き、各地で講演会を開催し、小学校の教師を集め啓蒙を行った。その活動はすさまじく多くの中毒者を回帰させ、その後の日本の目覚ましい経済的発展につなげた。 1896年(明治29年)3月 鎌倉に転任。 1903年(明治36年) 鎌倉メソジスト教会(現・日本基督教団鎌倉教会)の初代牧師になる。引退後も鎌倉に住み、同地で死去する。
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