メソジスト教会との分裂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 18:23 UTC 版)
「ヴァンダービルト大学」の記事における「メソジスト教会との分裂」の解説
最初の40年間、評議会つまり大学はアメリカ南メソヂスト監督教会の全米総連の運営下にあった。大学の将来をめぐり、特に評議会員の選出方法やメソディスト信者でなくとも教授職に就くことの可否について大学陣営と教会側との間の緊張は高まった。 1893年、ジェイムズ・ハンプトン・カークランドが学長に任命されると論争はさらにエスカレートした。メソディスト教会南部支部の信徒団は30万ドルを集めるためのキャンペーンで5万ドルしか集められなかった。 1905年、評議会は5名の司教という、ごく少数のメソディスト代表者にしか投票しなかった。元教授で司教のイライジャ・エンブリー・ホスはメソディストによる支配を行使しようと企てるグループを率いていた。1910年、評議会は3名のメソディストの司教の参加を拒否。メソディスト教会は反発して裁判に訴え、地元レベルで勝訴した。1914年3月21日、テネシー州最高裁判所はメソディスト教会でなくコーネリアス・ヴァンダービルトが大学の創立者であって、評議会には誰でも立候補できるとした。1914年、 教会側は投票し151対140でヴァンダービルトと僅差となった。またこの時新しい大学、南メソジスト大学の創立の投票も行われ、エモリー大学の創立にも発展した。
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