尾形厩舎の主戦騎手となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 11:02 UTC 版)
「保田隆芳」の記事における「尾形厩舎の主戦騎手となる」の解説
1946年10月より正規の競馬が再開されると保田は騎手として復帰。しかし日本では5年以上のブランクもあり、しばらくは芳しい成績が挙がらなかった。この頃は賞金も安かったため保田に限らずみな生活は苦しく、松山吉三郎、八木沢勝美と賞金を一括した上で互いに分け合っていた。1949年秋、武田文吾の騎手引退に伴い関西の小川佐助厩舎から菊花賞優勝馬ニューフォードの騎乗を依頼され、同馬と天皇賞(秋)を制し、戦後の八大競走初優勝を遂げた。さらに翌1950年にはヤシマドオター、1951年にはハタカゼと、天皇賞(秋)三連覇を達成。尾形厩舎の主戦騎手として、他にも数々の大競走を制していった。1953年と1954年には、自身が後年「私が乗ったのでは最強馬」と評するハクリョウで菊花賞と天皇賞(春)を制覇。同馬はアメリカのローレルパーク競馬場から国際競走ワシントンD.C.インターナショナルへ招待されたが、輸送上の問題から渡米はかなわなかった。 1956年、ハクチカラで東京優駿(日本ダービー)を制し、ダービージョッキーとなる。同馬は翌1957年に天皇賞(秋)と有馬記念を制したのち、1958年より長期のアメリカ遠征に入り、保田もこれに同行した。現地のジョッキーライセンスを取得した保田はハクチカラの渡米初戦から騎乗したが、勝利を挙げることはできなかった。5戦を消化したところで尾形から帰国を促され、ハクチカラを残して先に離米。以後ハクチカラはアメリカの騎手を乗せて出走を続け、渡米後11戦目のワシントンバースデイハンデキャップ(レイ・ヨーク騎乗)を制し、日本の競走馬による米重賞初勝利を挙げた。
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