尾形家と呉服商雁金屋とは? わかりやすく解説

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尾形家と呉服商雁金屋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/20 04:34 UTC 版)

尾形光琳」の記事における「尾形家と呉服商雁金屋」の解説

尾形家の祖先伊春は、足利義昭仕え上級武士であったといわれるが、正確なところはわからない伊春の子尾形光琳曽祖父)の代に染色業始めたという。道夫人本阿弥光悦の姉であり、光悦光琳は遠い姻戚関係にあることになる。道の子・宗光悦流の書をよくする風流人であった呉服商雁金屋慶長年間には高台院淀殿徳川家康徳川秀忠および同夫人の江など当代一流人物顧客としていたが、宗時代には東福門院徳川秀忠娘、後水尾天皇中宮)の用を務めようになった。宗末子で、雁金屋後継ぎとなったのが光琳乾山兄弟の父である尾形宗謙1621年 - 1687年)だった。この宗謙も光悦流の書をよくし、絵も描くという多趣味人物だった。 光琳は宗謙の次男として万治元年1658年)に生まれた。宗謙の38歳時の子である。初名を惟富(これとみ)、通称を市之丞といった。5歳下の弟・権平が後に画家陶芸家として知られるうになる乾山である。当時ファッション先端だった呉服商生まれた光琳は当然のようにそこからデザイン影響大きく受けており、少年時代から能楽茶道書道日中古典文学などに親しんだこともよく知られている。絵はもともとは趣味として狩野派流れをくむ山本素軒師事したとされるが、その時期等はくわしくわかっていない。乾山によれば光琳は絵にこそ自分天分があるといつも言っていたという。 雁金屋経営は、年間5000両以上も発注し最大得意先だった東福門院崩御延宝6年1678年))を期に傾きつつあった。また、米を担保大名金子融資する大名貸し」を行って、その多く貸し倒れになったことも雁金屋経営悪化拍車をかけた。こうした中で光琳30歳貞享4年1687年)、宗謙が死去し雁金屋は兄・藤三郎が継いだこの頃生来遊び人であった光琳遊興三昧日々送って相続した莫大な財産湯水のように使い果たし乾山からも借金するようなありさまであった光琳画業傾注したのはこのような家業経営難激減した収入を絵で補うという面が大きく追い詰められた後の最後選択肢として絵の道を志したわけであった

※この「尾形家と呉服商雁金屋」の解説は、「尾形光琳」の解説の一部です。
「尾形家と呉服商雁金屋」を含む「尾形光琳」の記事については、「尾形光琳」の概要を参照ください。

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