安田隆行
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安田 隆行(やすだ たかゆき、1953年3月5日 - )は日本中央競馬会 (JRA) の元騎手、元調教師。栗東トレーニングセンターに所属していた。京都府京都市出身。自厩舎所属の調教助手である安田景一朗(長男)とJRA調教師の安田翔伍(次男)は実子[1]。
注釈
出典
- ^ 『週刊ギャロップ』2011年2月20日号および『競馬最強の法則』2011年10月号。
- ^ 大塚(2003)pp.193-194
- ^ 大塚(2003)p.196
- ^ 大塚(2003)p.198
- ^ 大塚(2003)p.199
- ^ 大塚(2003)p.211
- ^ 大塚(2003)p.192
- ^ 『優駿』1994年5月号、pp.84-85
- ^ “【ドバイWC】現地紙「日本に感動的な勝利」”. SANSPO.com (2011年3月28日). 2011年8月14日閲覧。
- ^ “【アラカルト】ダブルで歴代単独首位狙うトランセンド / JCダート”. Gallop Online (2011年12月1日). 2012年1月5日閲覧。
- ^ 栗山求 (2011年11月27日). “京阪杯はロードカナロア”. 栗山求の血統BLOG. 2012年1月5日閲覧。
- ^ “【香港スプリント】ロードカナロア 日本馬初の香港電撃王!”. Sponichi Annex (2012年12月10日). 2013年1月20日閲覧。
- ^ “「素晴らしい人生を送れた」安田隆行調教師が涙でターフに別れ 通算1000勝届かずも「満足できる結果」 | 競馬ニュース”. netkeiba. 2024年3月9日閲覧。
- ^ “定年引退の安田隆行師、998勝の花道 最後は“特別な場所”小倉で感極まった(日刊スポーツ)”. Yahoo!ニュース. 2024年3月9日閲覧。
- ^ 調教師7名・騎手1名が引退日本中央競馬会、2024年2月6日配信・閲覧
- ^ “JRA初、白毛馬ホワイトベッセルが勝利”. netkeiba.com (2007年4月1日). 2010年12月5日閲覧。
- ^ “ジョッキーマスターズ、河内洋騎手が優勝”. netkeiba.com (2007年4月22日). 2010年12月5日閲覧。
- ^ “レッドルゼル”. www.jbis.or.jp. 2022年10月5日閲覧。
- ^ “アグリ”. JBISサーチ. 公益財団法人日本軽種馬協会. 2023年2月26日閲覧。
- ^ “ダイシンクローバー”. JBISサーチ. 公益財団法人日本軽種馬協会. 2023年5月13日閲覧。
安田隆行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:15 UTC 版)
デビューから東京優駿までの6戦に騎乗。テイオーに騎乗するまでの安田はローカル開催での勝利が中心で、GI級競走での活躍とは縁がなかった。1982年に足を骨折してからはその後遺症に悩まされ続け、1988年には「5年計画で調教師を目指そう」と決心していた。しかしテイオーで皐月賞、ダービーを連勝して全国区の知名度を獲得、JRA発行の「ジョッキー列伝」ポスターも制作された。東京優駿の1週間前になるとスポーツ新聞はテイオーが東京優駿を勝つことが既成事実のように報じたが、安田に対する取材も凄まじく、調教がある火曜日の朝に「東京のTVに生出演してほしい」という依頼もあった。1992年に主戦騎手を降板して以降は大阪杯、天皇賞(春)でテイオーと対戦し、大阪杯でテイオーの後ろ姿を見て「あの馬に俺は乗っていたんだ」と誇らしくさえ思ったという。岡部に乗り替わった際には「やっぱり悔しかった引用エラー: タグに対応する タグが不足しています。1993年の有馬記念は最後の直線で思わず大声を出してしまったといい、「僕も、涙が出そうになったよ。田原君らしくて、よかったね。それにビワハヤヒデに勝ったのだから」と振り返っている。引退式に出席した際の騎手紹介では、安田への声援がもっとも大きかった。長浜牧場場長の長浜秋一は、一番安心してレースを見ていられたジョッキーとして、「新馬から乗ってるから馬の心をしっかり押さえてる感じがする」として安田を挙げている。安田は後年、テイオーについて「テイオーは僕の人生のすべて。表舞台に引き連れていってくれたから」と語っている。
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