デビューから東京優駿まで
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「メリーナイス」の記事における「デビューから東京優駿まで」の解説
1986年8月3日、函館競馬場でデビューした。均整の取れた馬体と調教で見せる優れた瞬発力から注目され、1番人気に推されこれに応えて勝利した。続く2戦目コスモス賞はゴールドシチーの4着、3戦目りんどう賞はこの世代の一番馬と目されていたサクラロータリーにアタマ差の2着と敗れた。続くいちょう特別で2勝目を挙げると、GI・朝日杯3歳ステークスに出走した。 頭ひとつ抜けた存在と見られたサクラロータリーが骨折で戦線を離脱していたためレースは混戦模様となり評価が割れる中、メリーナイスは重賞2連勝でここに臨んだホクトヘリオスに続く2番人気に支持された。レースでは好位に取り付き、直線で力強く抜け出すと1馬身半差で優勝した。この勝利によって、メリーナイスは関西で阪神3歳ステークスを制したゴールドシチーと共に最優秀3歳牡馬に選ばれた。 明けて迎えた4歳シーズンは、スプリングステークスから始動した。しかしマティリアルの前に見せ場なく9着に敗れ、続くクラシック初戦の皐月賞でも7着に敗れた。そして迎えた東京優駿では皐月賞馬サクラスターオーの不在で同3着のマティリアルに人気が集中する中、4番人気に推された。 レースではマティリアルにマークされる形で中団を進んだが、4コーナーで先行集団に取り付くと直線では逃げ粘るサニースワローをかわしてそのまま差を広げ続け、最終的にサニースワローに6馬身差を付けて優勝した。この着差はダービーの着差としては史上4番目の大差で手綱を取った根本は「後続馬の足音が聞こえなかった」と語り、のちにJRAが作成したポスターで「四白 流星 六馬身。」というキャッチコピーに使われるほどの圧勝だった。
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デビューから東京優駿まで
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「ライスシャワー」の記事における「デビューから東京優駿まで」の解説
調教が積まれ、3歳戦が始まる7月の札幌開催にはデビューを迎えられる状態となった。しかし7月の初旬に熱発を起こして札幌での初戦は見送られ、デビューは1ヶ月後、8月10日の新潟開催で迎えた。当日は飯塚厩舎所属であった若手騎手・水野貴広を鞍上に、2番人気に支持される。ここは先行策から最後の直線でダイイチリュモンをクビ差競り落とし、初戦勝利を挙げた。水野は後年このレースについて「調教の時から、この馬は走ると思った。ふつう新馬戦というのは、不安と期待が半々なんですが、この新馬レースだけは絶対に負けないと自信をもって乗りました」と振り返っている。 重賞初出走となった2戦目の新潟3歳ステークスでは、水野が前日に騎乗停止処分を受けたことから急遽菅原泰夫が代役を務めた。当日は3番人気に推されたが、スタートで遅れて後方からのレースとなり、馬群の内側に包まれたまま11着と敗れた。レース後に菅原は「条件が悪すぎていいとこなしだったが、乗った印象としては短いところで忙しいレースをするより、長距離でじっくり勝負するタイプだと思った」とコメントした。3戦目に格上挑戦で出走した芙蓉ステークスでは騎手が水野に戻ると、最後の直線入り口で先頭に立ってから、1番人気アララットサンとの競り合いを制し、2勝目を挙げた。しかし、この競走後に右前脚の骨折が判明。全治3ヶ月と診断され、トレーニングセンター内での療養が図られた。 翌1992年3月29日、4歳となったライスシャワーは皐月賞へのトライアル競走・スプリングステークスで復帰する。若手の水野では荷が重いとの判断から、ベテランの柴田政人が騎乗した。的場均にも声が掛けられていたが、的場は先約があるとの理由でこれを断っている。この競走でミホノブルボンと初対戦したが、同馬が2着に7馬身差をつけて勝利した後方で4着となった。柴田政人は「この勝負ではミホノブルボンとの差は決定的だが、この先体調も良くなり、レースの距離も伸びれば、かなりいいところまで行く馬だと思ったよ。ぼくはもう皐月賞、ダービーに乗る馬が決まっていたんで、この馬に乗るのは多分この1回だけと思ったけど、もう乗らないのが惜しい気持ちになったもの」と述懐している。ちなみにこのレースにはサクラバクシンオーも出走しており、同馬はこのレースで12着と大敗を喫したことでクラシック出走を諦め、後の主戦場となる短距離路線へ進んでいる。 次走・クラシック初戦の皐月賞より、的場均が騎手を務めた。この競走では最終コーナー手前から失速し、ミホノブルボン優勝の後方で8着、東京優駿(日本ダービー)へのトライアル競走・NHK杯でもやはり8着となった。的場はこの結果について「最初から過度の期待はしていなかった」とし、「このままじゃ本番(ダービー)も苦しいかなと、相手の実力を比較して考えました」と述べている。5月31日に迎えた日本ダービーでは18頭立て16番人気の評価だったが、最終調教でライスシャワーの調子が上がっていることを感じた的場は「いい位置で粘りきることが、馬の力を引き出す一番の方法だと思って」逃げたミホノブルボンに続く2番手でレースを進めた。最後の直線ではミホノブルボンとの差を詰めることができず、後方から追い込んできたマヤノペトリュース(田原成貴騎乗)に一旦は交わされたが、最後に失速した同馬を差し返す形となり2着で入線。ミホノブルボンとの馬連配当2万9580円という波乱の立役者となった。2着という結果について的場は「すべてがうまく運んで2着に入ったんだ」と思った程度であったが、引退後に出版した自著において、「もし田原騎手が『ブルボンを負かすのは無理』と、照準をブルボンではなく僕らに向けて2着狙いできていたら、おそらく楽に捉えられてしまっただろうし、そういう意味では、この2着はラッキーであったかもしれない」としながらも、「日が経つにつれて『この馬で、あのミホノブルボンに、三冠最後の菊花賞で何とか立ち向かいたい』という気持ちが、僕にも強く湧いてきた」と述懐している。
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