デビューから神奈川時代の藤巻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 20:37 UTC 版)
「藤巻昇」の記事における「デビューから神奈川時代の藤巻」の解説
山梨県立甲府工業高等学校を中退した後、実父の藤巻清一が選手であったことから日本競輪学校を受験し合格。後に弟3人(藤巻清志・藤巻勝・藤巻進) も選手となり、競輪一家としても名を馳せるようになる。当初は山梨登録でデビューしたが、すぐに特別競輪(現在のGI)で活躍を見せるようになり、1968年には第22回日本選手権競輪で準優勝となったが、同じ月に開催された競輪祭新人王戦を優勝し、一躍注目を集めるようになった。 この後に神奈川へ移動し、第13回(1971年)競輪祭競輪王戦でも準優勝を果たすなどしていたが、同期の福島正幸がタイトルを量産していく一方で新人王戦以外のタイトルとは無縁で、「無冠の帝王」と呼ばれたことがあった。 20代前半は福島正幸のコンピューターと呼ばれた理詰めの強さに歯が立たず、競輪競走にイヤ気さし練習そこそこでゴルフにのめり込み、また当時病名もなかった花粉症に春先から毎年悩まされ三強時代はその影に隠れた。しかし25歳になったある日、ゴルフクラブを川に投げ捨て「いのちがけ」の練習に打ち込みだしたといわれる。
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