デビューから新日本プロレス移籍まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 20:14 UTC 版)
「越中詩郎」の記事における「デビューから新日本プロレス移籍まで」の解説
1979年3月5日、館山市民センターで園田一治を相手に公式戦デビュー。越中も大仁田厚の後を継いで、馬場の付き人を務めた。 大部屋時代、越中はあまり好きでない酒に付き合わされ酒に酔って暴れる仲間達と同じ場所に居させられたこと、体を大きくするために先輩の命令で旅館の飯櫃を無理に食べたことなどを苦労話として後に2019年のインタビューで話していた。スケジュールも過酷であり、酷い時は広島での興行が終わった次の日に秋田のリングに上がるというものがあった。デビューしてからというものの脱走したいことが何度もあり、駅のホームで移動の電車を待つ際に東京に逃げ帰ったらどれだけ楽だろうかと考えることがしばしばであった。だが、逃げるとすぐに見つかるのが目に見えていたため、実際には脱走に至らなかった。 鶴田が退寮した際に先輩の多くも海外遠征に行ってしまい、先輩達から寮をまとめてほしいと告げられた。越中も、暫くあても目標も無くジャイアント馬場の付け人をおこなっていたが、体重100㎏に達したら海外遠征に行かせてやると馬場から約束されてそれに向かって精進したザ・グレート・カブキからは試合展開の細かい組み立て方を教わり、佐藤昭雄からは若手が底上げして活性化するように発破を掛けられた。 1981年2月19日の福島大会でデビューから245戦目にして後輩相手にようやく初勝利を挙げる。同年8月、越中は三沢光晴のデビュー戦の対戦相手を務め、以後三沢とのカードは「前座の黄金カード」と呼ばれ、注目を集めた。 1983年4月22日、ルー・テーズ杯争奪リーグ戦で、三沢を破り優勝。1984年3月、三沢とともにメキシコへ遠征し、サムライ・シローの名で活躍した。越中もメキシコ遠征中はメインイベントを張らせてもらうなどレスラーとして破格の厚遇を得たが、移動手段、食事、リングコンディションは劣悪そのもので、シューズの真ん中に穴が開いていたり不衛生な飲み水で赤痢を起こしたりと散々な目に遭った。同年7月、越中は馬場からの国際電話で「三沢を日本に帰せ。チケットを送るから三沢を空港へ送れ」と告げられ、後に三沢がタイガーマスクとして先に凱旋帰国したことに危機感を抱くようになっていき、1985年2月、坂口征二の誘いで新日本プロレスが遠征を行っていたハワイに飛び、その際に新日本移籍を決意する。同年4月1日の東京スポーツに全日本退団を全日本に提出した辞表と共にスクープされ、そして同年7月に越中は全日本プロレスを離脱し新日本プロレスに押し掛け同然で移籍して帰国(異説については後述。)。同年7月19日の新日本札幌中島体育センター大会に現れ、同年8月1日の新日本両国国技館大会で入団挨拶を行った。なお、越中はすぐに新日本に移籍せずまず当時設立したばかりのプロモーションだったアジアプロレスに移籍して、そこから新日本に上がるという形を取っていた。後に2019年の記事で新日移籍の真相に関してザ・グレート・カブキが、「メキシコ遠征中に馬場さんから帰国するかどうか聞かれた際にメキシコに残ると答えたが、その横で聞いていた元子さんが『あら、かわいくないわね』と機嫌を損ね、それで帰国しても全日に戻れなくなったので移籍を決めた」という内容を話している。 新日本プロレスと全日本プロレスの違いに関して越中は、「全日は相撲部屋のような縦社会。新日は体育会系の部活のようなノリ」「馬場さんはガイジンと対等にぶつかり合う大きな体が必要と考えていたが、猪木さんは自分から攻めていくことを要求した」という趣旨の感想を述べている。なお、風呂に関しても在籍時代の全日は馬場が風呂から上がるまで他の選手は絶対に入浴できなかったが、新日は試合が終わった順番から入っていくことができ、立場が上のものが風呂から上がるのを待つという全日時代の癖が付いていた越中は猪木からは「そんな汗かいて、ウロウロしてんじゃねぇ。早くシャワー浴びろ!」と注意された。
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