ジューヌエコール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/13 06:13 UTC 版)
ジューヌエコール | |||||||||
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2016年デイリー杯2歳S
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欧字表記 | Jeune Ecole | ||||||||
品種 | サラブレッド | ||||||||
性別 | 牝 | ||||||||
毛色 | 鹿毛 | ||||||||
生誕 | 2014年3月21日(11歳) | ||||||||
抹消日 | 2019年8月7日[1] | ||||||||
父 | クロフネ | ||||||||
母 | ルミナスポイント | ||||||||
母の父 | アグネスタキオン | ||||||||
生国 | ![]() |
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生産者 | ノーザンファーム | ||||||||
馬主 | (有)サンデーレーシング | ||||||||
調教師 | 安田隆行(栗東) | ||||||||
調教助手 | 安田翔伍 | ||||||||
競走成績 | |||||||||
生涯成績 | 18戦4勝 | ||||||||
獲得賞金 | 1億3569万5000円 | ||||||||
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ジューヌエコールは、日本の競走馬、繁殖牝馬。主な勝鞍は2016年のデイリー杯2歳ステークス(GII)、2017年の函館スプリントステークス(GIII)。
馬名の由来は「大規模艦隊に強力な小型艦で対抗する19世紀の海軍の戦略思想(仏)」。
経歴
2016年(2歳)
7月10日中京の新馬戦に鞍上福永祐一で出走。3番手追走から抜け出してデビュー勝ちを飾った[2]。
続く9月24日阪神のききょうステークスではC・ルメールを背に1番人気に推され、スタートで出遅れて最後方からの競馬になったものの直線で前の馬を差し切って優勝[3]。
再び福永に鞍上が戻った11月12日京都のデイリー杯2歳ステークスでは3番手に位置を取り、ゴール前でのボンセルヴィーソとの叩き合いを制して勝利、無敗の3連勝で重賞初制覇となった[4]。
次走12月11日阪神の阪神ジュベナイルフィリーズには、香港スプリントでビッグアーサーに騎乗する先約があった福永に代わり、M・バルザローナを鞍上に迎えて出走[5]。良血馬ソウルスターリング、アルテミスステークス優勝馬リスグラシュー、小倉2歳ステークス優勝馬レーヌミノルに次ぐ4番人気に支持されたが、道中は折り合いを欠いたうえに直線では横の馬と接触する場面もあり、最後は失速して11着に終わった。騎乗したバルザローナは「スピードのある馬で、1200mから1400mがベストでしょうか」とコメントした[6]。
2017年(3歳)
北村友一とのコンビで臨んだ3月12日阪神のフィリーズレビューでは、直線入り口で外から内に切れ込んできたレーヌミノルと内の馬に挟まれる不利を受け、前との差を詰められず4着となった。本番の4月9日桜花賞では大きく人気を落とし、道中ではまたも掛かり気味となり9着に敗れた。
次走には初の1200m戦となる6月18日函館の函館スプリントステークスを選択。50kgでの出走ということもあり3番人気に推された。レースでは速い流れの中で中団に位置を取り、4コーナーで外から進出すると直線半ばで先頭に立ってそのまま押し切り、2着に2馬身半差を付けて快勝。重賞2勝目を飾った[7][8]。勝ちタイム1分6秒8は函館芝1200mのコースレコードであり、アグネスワールドが持つ日本レコードに0秒3まで迫る高速決着となった[9]。
その後は8月27日札幌のキーンランドカップへの出走を予定していたが、ツメの不安のため回避[10]。10月28日京都のスワンステークスで復帰するも12着、11月26日京都の京阪杯は14着といずれも大敗し、この年を終える。
2018年(4歳) - 2019年(5歳)
2018年は3月3日中山のオーシャンステークスから始動したが12着、約1年半ぶりに福永が手綱を取った3月25日中京の高松宮記念は17着、連覇を目指した6月17日の函館スプリントステークスでは14着と重賞での2桁着順が続いた。
その後は8月26日の朱鷺ステークス、10月14日の信越ステークスと2戦続けて新潟1400mのオープン戦に出走したが5着、9着と勝利は挙げられず、次走からはダートに転向。
初のダート戦となった11月25日の京都オータムリーフステークスは7番人気での出走となるも、圧倒的1番人気に推されていたコパノキッキング相手にクビ差の2着と好走[11]し、函館スプリントステークス以来およそ1年半ぶりに馬券圏内に入った。
年が明けた2019年は前走と同コースの2月17日大和ステークスに出走、ゴール手前でヤマニンアンプリメに差し切られたものの再び2着に入る[12]。その後は続けてダート1200m戦に出走したものの4月14日中山の京葉ステークス、4月29日京都の天王山ステークスと連続4着に終わった。
その後、右前脚の球節部の骨折とけい靱帯炎が判明。馬主のサンデーレーシングの規定である引退期限の6歳3月末までの復帰が難しいと判断されたため、8月3日に現役引退が発表された[13]。
8月7日付で競走馬登録を抹消、引退後はノーザンファームで繁殖牝馬となる[1][14]。
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デイリー杯2歳S
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フィリーズレビュー
競走成績
以下の内容は、netkeiba.comの情報[15]に基づく。
競走日 | 競馬場 | 競走名 | 格 | 距離(馬場) | 頭 数 |
枠 番 |
馬 番 |
オッズ (人気) |
着順 | タイム (上がり3F) |
着差 | 騎手 | 斤量 [kg] |
1着馬(2着馬) | 馬体重 [kg] |
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2016. 7.10 | 中京 | 2歳新馬 | 芝1400m(重) | 12 | 4 | 4 | 4.1 (2人) | 1着 | 1:23.0(34.9) | -0.3 | 福永祐一 | 54 | (メイショウハバネラ) | 476 | |
9.24 | 阪神 | ききょうS | OP | 芝1400m(稍) | 9 | 8 | 9 | 2.6 (1人) | 1着 | 1:22.3(34.0) | -0.1 | C.ルメール | 54 | (マルモレイナ) | 488 |
11.12 | 京都 | デイリー杯2歳S | GII | 芝1600m(良) | 10 | 6 | 6 | 3.6 (2人) | 1着 | 1:34.6(33.6) | -0.0 | 福永祐一 | 54 | (ボンセルヴィーソ) | 490 |
12.11 | 阪神 | 阪神JF | GI | 芝1600m(良) | 18 | 6 | 11 | 8.0 (4人) | 11着 | 1:35.6(36.3) | 1.6 | M.バルザローナ | 54 | ソウルスターリング | 488 |
2017. 3.12 | 阪神 | フィリーズレビュー | GII | 芝1400m(良) | 18 | 3 | 6 | 7.0 (3人) | 4着 | 1:21.6(35.8) | 0.6 | 北村友一 | 54 | (カラクレナイ) | 488 |
4. 9 | 阪神 | 桜花賞 | GI | 芝1600m(稍) | 17 | 2 | 4 | 96.6(12人) | 9着 | 1:35.3(36.1) | 0.8 | 北村友一 | 55 | レーヌミノル | 484 |
6.18 | 函館 | 函館スプリントS | GIII | 芝1200m(良) | 13 | 6 | 8 | 7.2 (3人) | 1着 | R1:06.8(33.9) | -0.4 | 北村友一 | 50 | (キングハート) | 482 |
10.28 | 京都 | スワンS | GII | 芝1400m(重) | 18 | 3 | 6 | 14.3 (6人) | 12着 | 1:23.2(35.8) | 0.8 | 北村友一 | 52 | サングレーザー | 492 |
11.26 | 京都 | 京阪杯 | GIII | 芝1200m(良) | 16 | 8 | 16 | 11.9 (7人) | 14着 | 1:09.5(34.2) | 0.7 | 北村友一 | 54 | ネロ | 492 |
2018. 3. 3 | 中山 | オーシャンS | GIII | 芝1200m(良) | 16 | 3 | 5 | 37.3(12人) | 12着 | 1:08.9(34.7) | 0.6 | 北村友一 | 54 | キングハート | 494 |
3.25 | 中京 | 高松宮記念 | GI | 芝1200m(良) | 18 | 7 | 15 | 120.3(14人) | 17着 | 1:09.9(35.7) | 1.4 | 福永祐一 | 55 | ファインニードル | 484 |
6.17 | 函館 | 函館スプリントS | GIII | 芝1200m(良) | 16 | 2 | 4 | 13.5 (6人) | 14着 | 1:08.3(34.2) | 0.7 | 北村友一 | 54 | セイウンコウセイ | 484 |
8.26 | 新潟 | 朱鷺S | OP | 芝1400m(稍) | 15 | 2 | 3 | 10.4 (5人) | 5着 | 1:21.1(34.4) | 1.4 | 石川裕紀人 | 54 | ワンスインナムーン | 498 |
10.14 | 新潟 | 信越S | OP | 芝1400m(良) | 18 | 7 | 15 | 32.7(12人) | 9着 | 1:21.6(36.4) | 0.9 | 川又賢治 | 54 | スターオブペルシャ | 500 |
11.25 | 京都 | オータムリーフS | OP | ダ1200m(良) | 16 | 4 | 7 | 24.8 (7人) | 2着 | 1:10.8(35.2) | 0.0 | 北村友一 | 54 | コパノキッキング | 490 |
2019. 2.17 | 京都 | 大和S | OP | ダ1200m(良) | 13 | 7 | 10 | 4.6 (1人) | 2着 | 1:10.8(35.9) | 0.1 | 坂井瑠星 | 54 | ヤマニンアンプリメ | 494 |
4.14 | 中山 | 京葉S | L | ダ1200m(良) | 16 | 1 | 2 | 2.5 (1人) | 4着 | 1:11.4(36.2) | 0.4 | C.ルメール | 54 | アポロノシンザン | 494 |
4.29 | 京都 | 天王山S | OP | ダ1200m(良) | 15 | 6 | 11 | 4.4 (2人) | 4着 | 1:11.5(36.1) | 0.2 | A.シュタルケ | 54 | タテヤマ | 488 |
- タイム欄のRはコースレコード勝ちを示す。
繁殖成績
馬名 | 生年 | 性 | 毛色 | 父 | 馬主 | 厩舎 | 戦績 | |
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初仔 | シャトーディフ | 2021年 | 牝 | 鹿毛 | モーリス | (有)サンデーレーシング | 美浦・木村哲也 | 6戦0勝(引退) |
2番仔 | デュピュイドローム | 2022年 | 牡 | 黒鹿毛 | ロードカナロア | 美浦・宮田敬介 | 1戦0勝(現役) | |
3番仔 | エコールナヴァール | 2023年 | 牝 | 鹿毛 | アドマイヤマーズ | 美浦・森一誠 | (デビュー前) | |
4番仔 | ジューヌエコールの2024 | 2024年 | 牡 | 鹿毛 | レイデオロ |
- 2025年4月11日現在
血統表
ジューヌエコールの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | デピュティミニスター系 |
[§ 2] | ||
父
*クロフネ 1998 芦毛 |
父の父
*フレンチデピュティFrench Deputy 1992 栗毛 |
Deputy Minister | Vice Regent | |
Mint Copy | ||||
Mitterand | Hold Your Peace | |||
Laredo Lass | ||||
父の母
*ブルーアヴェニューBlue Avenue 1990 芦毛 |
Classic Go Go | Pago Pago | ||
Classic Perfection | ||||
Eliza Blue | Icecapade | |||
*コレラ | ||||
母
ルミナスポイント 2003 青鹿毛 |
アグネスタキオン 1998 栗毛 |
*サンデーサイレンス | Halo | |
Wishing Well | ||||
アグネスフローラ | *ロイヤルスキー | |||
アグネスレディー | ||||
母の母
*ソニンクSoninke 1996 黒鹿毛 |
Machiavellian | Mr. Prospector | ||
Coup de Folie | ||||
Sonic Lady | Nureyev | |||
Stumped | ||||
母系(F-No.) | ソニンク系(FN:B3) | [§ 3] | ||
5代内の近親交配 | Northern Dancer 5×5=6.25%、Halo 4・5(母内)=9.38% | [§ 4] | ||
出典 |
- 母ルミナスポイントは現役時代に条件戦5勝、その内4勝をダート短距離戦で挙げている[18]。
- 叔父に芝・ダートで重賞6勝のノーザンリバー、ダート重賞4勝馬ランフォルセ。伯母アコースティクスの仔に2009年の東京優駿優勝馬ロジユニヴァース、叔母ライツェントの仔に2017年秋華賞・2019年ナッソーステークス勝ち馬ディアドラがいる。
- 3代母Sonic Ladyは1986年愛1000ギニー・サセックスステークス・ムーランドロンシャン賞の勝ち馬[19]。また、6代母Lucaslandの子孫にマイルGI5勝を挙げたAttractionがいる。
出典
- ^ a b “ジューヌエコール号が競走馬登録抹消”. 日本中央競馬会 (2019年8月7日). 2019年8月7日閲覧。
- ^ 「【POG】ジューヌエコールが力強く抜け出す 福永も素質を評価」『netkeiba.com』。2019年8月7日閲覧。
- ^ 「【ききょうS】(阪神)?ジューヌエコールが人気に応えて差し切る」『netkeiba.com』。2019年8月7日閲覧。
- ^ 「【デイリー杯2歳S】(京都)~ジューヌエコールが無傷の3連勝で重賞制覇」『netkeiba.com』。2019年8月7日閲覧。
- ^ 「【デイリー杯2歳S】ジューヌエコール無傷3連勝 G1獲りに名乗り」『netkeiba.com』。2019年8月7日閲覧。
- ^ 「【阪神JF】(阪神)?ソウルスターリングが無敗で2歳女王に輝く | 競馬ニュース」『netkeiba.com』。2019年8月7日閲覧。
- ^ 「3歳牝馬ジューヌエコールがレコードV、セイウンコウセイ4着/函館スプリントS」『netkeiba.com』。2019年8月7日閲覧。
- ^ 「ジューヌエコール、レコードV重賞2勝目/函館SS」『日刊スポーツ』。2019年8月7日閲覧。
- ^ “芝コース:中央競馬レコードタイム表”. 日本中央競馬会. 2019年8月7日閲覧。
- ^ 「函館スプリントSを制したジューヌエコールがツメの不安でキーンランドC回避」『競馬ラボ』。2019年8月7日閲覧。
- ^ 「【オータムリーフSレース後コメント】コパノキッキング藤岡康太騎手ら」『netkeiba.com』。2019年8月7日閲覧。
- ^ 「【大和Sレース後コメント】ヤマニンアンプリメ鮫島良太騎手ら」『netkeiba.com』。2019年8月7日閲覧。
- ^ 「重賞2勝馬 ジューヌエコールが引退 繁殖入り」『スポーツ報知』。2019年8月7日閲覧。
- ^ 「【JRA】ジューヌエコールが競走馬登録抹消、繁殖に 2016年デイリー杯2歳Sなど重賞2勝」『netkeiba.com』。2019年8月7日閲覧。
- ^ “ジューヌエコールの競走成績”. netkeiba.com. 株式会社ネットドリーマーズ. 2019年8月7日閲覧。
- ^ a b c “血統情報:5代血統表|ジューヌエコール”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年8月7日閲覧。
- ^ “ジューヌエコールの血統表”. netkeiba.com. 2019年8月7日閲覧。
- ^ “ルミナスポイント”. netkeiba.com. 2019年8月7日閲覧。
- ^ “Sonic Lady(USA)”. JBISサーチ. 2019年8月7日閲覧。
外部リンク
青年学派
(ジューヌエコール から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 10:07 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動青年学派(仏語:Jeune École)は、19世紀半ばにフランスで提唱された海軍戦略思想である。
戦艦に対抗する小型艦
1820年代にアンリ=ジョセフ・ペクサン(Henri-Joseph Paixhans)は炸裂弾を発射可能な艦砲であるペクサン砲を開発したが、この強力な砲を多数の小型蒸気軍艦に搭載することにより、より大型の戦列艦を破壊できると考えた。またアメリカ南北戦争における南軍の私掠船「アラバマ」(CSS Alabama)の活躍は、通商破壊の有効性を示すものであった[1]。
青年学派の祖とも言えるフランス海軍のグリヴェル大佐(Louis-Antoine-Richild Grivel、1827年-1883年)は、1869年に出版した本で新兵器の開発と通商破壊が対英国の戦略として有効であると発表した[2]。この考えは後は青年学派の指導的立場となったテオフィル・オーブ提督に引き継がれた。オーブは戦争の目的は「敵に最大限の苦痛を与えること」であり「敵艦隊を撃滅することは重要ではない」としたが、これは従来の考えと全く異なるため、彼の一派はJeune École(英語に直訳するとyoung school)と呼ばれることとなる[3]。
すでに水雷や外装水雷艇は実現しつつあり、また自走式の魚雷の発明により、理論はさらに精巧なものとなった。オーブ提督は1882年に『海軍の戦争とフランスの軍港("La guerre maritime et les ports militaires de la France")』と題する38ページのパンフレットを出版した[4]。この中で彼は「新技術の開発、例えば魚雷を用いることにより、敵の海上封鎖を無効化できる。従って、戦艦を作るよりも[5]、海岸線を守るために多くの水雷艇、沿岸警備艦、体当たり艦等の小艦艇を持つべきである。攻撃に関しては、巡洋艦を用いた通商破壊を行うべきで、何れの場合でも、高速の艦艇が必要である」と主張した。1883年-1885年の清仏戦争におけるフランス海軍の勝利は、従来の海軍に対する水雷艇の可能性を実証するものと思われた[6]。
やがて青年学派は、政治家やマスコミも巻き込んだ論争となっていった。記者のガブリエル・シャルム(Gabriel Charmes)は1884年から1885年にかけて政治紙にこの理論を紹介する記事を書いたが、彼は水雷艇を貧者の武器とし、対置する戦艦を保守的な王党派の象徴として、青年学派を共和主義と結び付けて海軍内の王党派を攻撃した。オーブが本来提唱していた理論では水雷艇と巡洋艦だけでなく戦艦も海軍の構成要素として欠かせなかったが、シャルムと急進的共和主義者は単純化して戦艦の全廃と水雷艇と巡洋艦のみの編成を唱えた。産業の観点から見ると戦艦の建造は大量の装甲板を供給する鉄鋼業と巨大な造船所が必要であり、急進的共和派は戦艦への攻撃をこれらを所有する実業家への攻撃に結び付けた。1886年1月7日にオーブは海軍大臣に任命されたが、これは彼の思想が認められたと言うよりは、イデオロギー闘争に利用するための共和派による政治判断であった[7]。海軍大臣となったオーブは早速彼の思想の実現を試みた。1861年2月にはシェルブールからジブラルタル海峡を廻ってトゥーロンまで水雷艇を航海させたが、全長33m程度の水雷艇では外洋を航行するのは困難であった。同年5月と6月には、8隻の戦艦からなる攻撃側を、20隻余の水雷艇(3隻の巡洋艦と1隻の海防戦艦が支援)で阻止する演習が行われた。攻撃側はツーロンを艦砲射撃することには成功したが、大半が撃沈判定を受けた。これにより、大型艦による近接封鎖が不可能であることが証明された。同年12月、オーブは、「(1) 戦艦は全てツーロンに配備し地中海ではイタリア海軍に対して攻勢に出る、(2) 英仏海峡では守勢に徹する、(3) 大西洋において通商破壊を実施する」と戦略を変更した[8]。
フランスはまた、潜水艦の開発にも熱心であった。これもまた、イギリス海軍に戦艦の数で劣るところを、技術開発で対抗しようとするものであった。海軍大臣就任後3ヶ月目に、オーブは最初の電池推進潜水艦である「ジムノート」の建造を認めた。20世紀の初めまでに、フランス海軍は「疑いなく実用的な潜水艦戦力を有した最初の海軍」となった[9]。
19世紀末まで、フランス海軍はこの戦闘システムの最も強力な支持者であった[10]。しかし1898年のファショダ事件において、青年学派に基づくフランス海軍は戦艦の不足からこのような海上危機においてイギリス海軍に対抗できないと示され、1900年には新たな戦艦の建造を含む従来型の艦隊の建設が認められた。しかし、1902年にカミーユ・ペルタン(Camille Pelletan)が海軍大臣に就任すると、再び青年学派は復活した[11]。この思想が捨てさられたのは日露戦争で戦艦の有用性が確認されたかなり後であったが、結果としてフランス海軍は戦艦数においてドイツにも劣ることとなり、第一次世界大戦でもほとんど活躍できなかった。
水雷艇への対抗策
水雷艇の発達とともに、これに対抗して、大型艦を守る試みも着手された。まず1880年代中盤より、水雷艇を撃攘しつつ自らも敵艦に雷撃を敢行しうる高速・軽快な艦として、スペイン海軍の「デストラクター」(Destructor)を端緒とする水雷砲艦(Torpedo gunboat)や水雷艇捕獲艦(Torpedo boat catcher)が建造された。しかしこれらは、従来の水上戦闘艦の延長線上であったことから船体構造が過重であり、また軽量大出力の適切な機関が得られなかったことから所期の速力を達成できず、その後の進化に繋がることはなかった[12]。
その後、1890年代中盤より、イギリス海軍は「ハヴォック」を端緒として水雷艇駆逐艦(Torpedo boat destroyer)の整備に着手した。これは水管ボイラーの発明に伴う軽量高出力機関の実用化を背景として、船体構造・機関ともに水雷艇をベースとして拡大強化するアプローチによって、大型の艦型による優れた航洋性と高速力を両立させたものであり、水雷艇を撃攘するための速射砲と、自らも敵艦に雷撃を敢行するための水雷兵器を備えていた。このコンセプトは成功を収め、後の駆逐艦の礎となった[12]。
通商破壊
青年学派の他の構成要素は、敵の通商と経済を縮小させるために一般商船を攻撃する通商破壊であり、これも英国への対抗戦術として考えられた。
23ノットの速力を誇り、敵海軍の船団護衛艦との近接戦闘でも戦闘能力を喪失し難い、デュピュイ・ド・ロームのような装甲巡洋艦がこの目的のために設計され、1888年に着工されている。
影響
青年学派は、自軍の戦艦戦力が弱体である場合の対応策として、19世紀の弱小海軍の発展に特に影響を与えた。大日本帝国海軍は、ルイ=エミール・ベルタンの影響により、青年学派に基づいて整備された艦隊で日清戦争を戦い、勝利した。
脚注
- ^ Dahl, p113
- ^ Dahl, P114
- ^ Dahl, p114
- ^ "La Guerre maritime et les ports militaires de la France", par M. le contre-amiral AubeThéophile Aube (Amiral.). Berger-Levrault, 1882
- ^ 但し、オーブはかれの後継者とは異なり、戦艦廃止論者ではなかった。彼は3段階からなる戦略を考えていた。まず、魚雷によって敵の海上封鎖を破る。そこから巡洋艦が外洋に出撃する。敵は巡洋艦を補足するために戦力を分割する必要がある。従って、この分断された戦力を撃破すれば良い。
- ^ Bueb, p16
- ^ Dahl, p116
- ^ Dahl, p115-116
- ^ Gardiner and Lambert
- ^ Howe, p281
- ^ Dahl, p118
- ^ a b 中川務 1994
参考資料
- Howe, Christopher (1996). The origins of Japanese Trade Supremacy, Development and technology in Asia from 1540 to the Pacific War. The University of Chicago Press ISBN 0-226-35485-7.
- Roksund, Arne. The Jeune École: The Strategy of the Weak. Leiden: Brill, 2007. ISBN 978-90-04-15273-1.
- Gardiner, Robert, and Lambert, Andrew (Eds.). Steam, Steel and Shellfire: The steam warship 1815–1905. Conway's History of the Ship, ISBN 0-7858-1413-2.
- Theodore Ropp: The Development of a Modern Navy: French Naval Policy 1871–1904. Ed.: Stephen S. Roberts, Annapolis, Md., Naval Institute Press, 1987 (Harvard University dissertation from 1937).
- (de/fr) Volkmar Bueb: Die "Junge Schule" der französischen Marine. Strategie und Politik 1875–1900, Harald Boldt Verlag, Boppard am Rhein, 1971. In: Militärgeschichtliches Forschungsamt (Editor): Wehrwissenschaftliche Forschungen, Department Militärgeschichtliche Studien, Volume 12. ISBN 3-7646-1552-4. (In German with quotations in French. Title translated to the English language: The "Jeune École" in the French marine. Strategy and policy between 1875 and 1900. Book out of print. Only in scientific libraries.
- Erik J. Dahl: Net-Centric before its time: The Jeune École and Its Lessons for Today US Naval War College Review, Autumn 2005, Vol. 58, No. 4, 109-135
- 中川務「イギリス駆逐艦建造の歩み」『世界の艦船』第477号、海人社、1994年2月、 149-155頁、 ISBN 978-4905551478。
関連項目
外部リンク
- François-Emmanuel Brézet: Enseignements de l'histoire et progrès technique: L'example de l'élaboration de la doctrine de la Jeune École française (title translated to english: Lessons from history and technical progress: Example how the ideas of the french Jeune École were elaborated) (フランス語)
- Capitaine de frégate Ceillier, "Les idées stratégiques en France de 1870 à 1914 - La Jeune École", Institut de Stratégie Comparée (フランス語)
- ジューヌエコールのページへのリンク