7歳時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 02:18 UTC 版)
2011年1月15日のニューイヤーステークスから始動したが16着、1月29日の白富士ステークスでは10着、2月27日の中山記念では12着と3戦続いての殿負けとなった。初ダートとなった6月11日のオアシスステークスに出走するも14着。6月16日付けで競走馬登録を抹消し、浦和競馬へ移籍。移籍緒戦のサンタアニタトロフィーでは向正面で故障発生し競走中止する。2012年1月6日で地方競馬の登録を抹消した。その後の消息は伝わっていない。
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7歳時(1999年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 10:14 UTC 版)
「サカモトデュラブ」の記事における「7歳時(1999年)」の解説
半年近い長期休養から5月に復帰後は全く状態が上がらなかったが、9月に行われた東京盃で1枠からマイペースで逃げ、直線で迫るビコーミニスターをクビ差抑え1着、GIIウイナーとなった。しかし、その後のレースでは惨敗続きで、年末の桐花賞では1着馬に11.9秒差という大敗を喫する。
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7歳時(1993年)
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「メジロマックイーン」の記事における「7歳時(1993年)」の解説
1993年、復帰戦の産経大阪杯をコースレコードで優勝し、天皇賞(春)3連覇に挑んだ。しかし、前年ミホノブルボンのクラシック三冠を菊花賞で阻んだライスシャワーに徹底マークされ、直線半ばで交わされて2着に敗れた。次走の宝塚記念では勝利を収め、GI競走の連続年度勝利記録となる4年連続GI制覇を達成した。 秋初戦の京都大賞典では、2分22秒7という当時のコースレコードで、レガシーワールドに3馬身半差をつけ優勝。この結果、獲得賞金が史上初の10億円突破となった。しかし、天皇賞(秋)4日前の10月27日、ウッドチップコースでの追い切りを終えた直後に歩様に異常が見られ、検査の結果左前脚部繋靱帯炎を発症していることが判明。2日後の29日に池江から現役引退・種牡馬入りが発表され、約1か月後の11月21日、京都競馬場で引退式が行われた。
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7歳時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 15:10 UTC 版)
2007年はフェブラリーステークスから始動する。本レースでは3、4コーナーでもたれたために立て直すのに手間取る。直線では猛追するものの先に抜け出したサンライズバッカスを捕らえることができず2着に敗れた。続いて、名古屋大賞典(名古屋競馬場、ダート1900m)に出走。59kgの斤量と1周目のスタンド前から掛かり3着に敗れた。続いてのかしわ記念(船橋競馬場、ダート1600m)では、同年のフェブラリーステークスの優勝馬サンライズバッカス、前年の本レース優勝馬アジュディミツオーを抑えて1番人気に支持される。レースでは前走の様に控えて折り合いを欠くことを避けるため積極的に先行し、道中を4番手の内で進める。3角手前で進出を始めると、直線で逃げるアジュディミツオーをインから交わし、そのまま突き放し優勝した。統一GIの5勝目をあげると共に前年の雪辱を果たした。続く帝王賞では圧倒的1番人気に支持される。しかし、直線で先頭に並びかけるが、内からボンネビルレコードに交わされ、2着に敗れ、放牧に出された。なお7月11日付けで当馬の所有権がブルーマネジメントに変更された。その後、9月4日に帰厩し、マイルチャンピオンシップ南部杯に出走。レースでは、道中2番手につけ、直線に向くと早めに先頭に立ち、そのままワイルドワンダーの追撃を振り切って見事にこのレース連覇を達成した。次走は第7回JBCクラシックに出走。道中は中団につけて最終コーナーあたりで進出を開始するものの、直線では延びきれず4着だった。続く第8回ジャパンカップダートでは、スタートから先行し、先頭集団に位置し進むものの、直線では力尽き7着だった。続く連覇を期待された第53回東京大賞典では、3番人気となるが5着だった。
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7歳時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 21:16 UTC 版)
メトロポリタンハンデキャップ2連覇。ウッドワードステークス4連覇の快記録を樹立。
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7歳時(1975年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/18 18:40 UTC 版)
「タニノチカラ」の記事における「7歳時(1975年)」の解説
2年連続の最優秀5歳以上馬に選出されたタニノチカラは、有馬記念連覇を目標に、翌1975年も現役を続行。緒戦の京都記念では、前年以上の63キログラムという斤量を負いながら、2着クラウンパレードに大差(10馬身以上)、タイム差にして1.7秒差をつけて圧勝した。競走後には相手陣営から「リヤカーでも引かせて勝負をしないとレースにならない」という声も聞かれた。なお、テレビ中継で実況アナウンスを担当した杉本清は、後年日本中央競馬会の広報誌『優駿』が企画した「史上最強馬」を決めるアンケートで、この競走を根拠にタニノチカラへ投票している。杉本の実況は次のようなものだった。 うわあ~、強い強いタニノチカラ強い、タニノチカラ強い、差は開いた。そして2着は2着は2着は、クラウンパレード!4番のタニノチカラ、文句なし。相手になりません! 続くオープン競走では、前年秋のオープン競走勝利時に「記念写真を撮り忘れた」という理由で、初騎乗時に新人、このときは2年目の河内洋が再び起用され、強豪牝馬として知られたイットーを半馬身退けて前年からの5連勝を遂げた。のちに河内は顕彰者にも選出される名騎手となったが、タニノチカラは彼に凡馬と一流馬の乗り心地の差を知らしめた馬となり、河内はこのときの記念写真を「宝物」として残している。 次走にはマイラーズカップを予定していたが、このころタニノチカラは骨折した古傷の周囲に炎症の兆候が出ており、出否は微妙な状況であった。しかしこの競走には、前年のクラシック二冠馬で有馬記念には不出走だったキタノカチドキ、前走でタニノチカラ相手に善戦したイットーが顔を揃えたことで、ファンからもタニノチカラの出走を望む声が寄せられ、これに応える形で出走が決まった。斤量はタニノチカラ61kg、キタノカチドキ60kg、イットー52kgで、当日はタニノチカラが1番人気、続いてイットー、キタノカチドキと続いた。タニノチカラはレースで出遅れ気味にスタートすると、道中は両馬を直前に見ながら進んだが、最後の直線で追い込みきれず、キタノカチドキから1馬身4分の1、イットーとはハナ差の3着と敗れた。 競走後、タニノチカラは繋靱帯炎を発症。休養に入るも復帰できず、そのまま引退した。掲示板を外したことは一度もなかった。田島は後年マイラーズカップについて「まともにやったらあの2頭に負けるはずはなかった」と語った。
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7歳時
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 01:44 UTC 版)
この年初戦の高松宮記念に出走。それまで4勝を挙げている得意の中京競馬場であったが8着に敗れ、ラストランをGI制覇で飾ることはできなかった。 2007年3月29日をもって競走馬登録を抹消され引退となった。
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