アン女王の治世において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/09 19:23 UTC 版)
「ヒュー・ボスコーエン (初代ファルマス子爵)」の記事における「アン女王の治世において」の解説
母が初代ゴドルフィン男爵シドニー・ゴドルフィン(1706年にゴドルフィン伯爵に叙爵)の姉妹で、妻の母が初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルの姉妹にあたるためか、1702年にカンバーランド公爵ジョージ王配の寝室宮内官(年収400ポンド、1708年まで在任)に任命された。同年の総選挙でトレゴニー選挙区(英語版)から出馬して当選、議会ではコート派(宮廷派)として投票した。 1705年イングランド総選挙ではコーンウォールにおける地盤を固め、コーンウォール選挙区(英語版)で当選した。このとき、トゥルーロ選挙区(英語版)でも当選したが、コーンウォール選挙区の代表として議員を務めることを選択した。議会でも宮廷派のままで、1707年から1708年の会期においては(ホイッグ党政権にもかかわらず)ジャントーが野党に回ったが、ヒューはこのとき「大蔵卿のホイッグ党員」(Lord Treasurer's Whig、大蔵卿はゴドルフィン伯爵の役職)とされ、与党側のままであった。そのため、1708年イギリス総選挙の直前に褒賞として錫鉱区長官(英語版)(年収1,000ポンド)に終身職として任命された。総選挙ではコーンウォールにおける自身の影響力に加えて宮廷の影響力も手中にしたため、コーンウォールの選挙区の多くで活動した。 1710年イギリス総選挙ではヘンリー・サシェヴェレル(英語版)の弾劾裁判によりホイッグ党逆風の情勢であり、ヒューはサシェヴェレルの裁判に欠席したにもかかわらず逆風の影響を受け、コーンウォール選挙区で落選してしまい、代わりにトゥルーロ選挙区で当選して議席を保った。同年にはセント・モーズ城長官からも解任された。1711年12月に「スペインなくして講和なし」の動議に賛成票を投じた後、1713年5月にフランスワイン関税法案に反対した。1713年イギリス総選挙ではペンリン選挙区(英語版)で当選、1714年3月にリチャード・スティール(英語版)の議会追放に反対票を投じた。
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