アヴァの家臣として(1485年 - 1501年)
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「ミンチーニョ」の記事における「アヴァの家臣として(1485年 - 1501年)」の解説
ミンチーニョは、祖父のチョーティンを死に追いやったヤメシンとの戦いでアヴァを支援した。しかしながらヤメシンの反乱の鎮圧は難航し、ミニェが亡くなる1500年8月まで膠着状態が続いたとみられる。アヴァがヤメシンのことで手一杯になっていたことでミンチーニョはより自信を深め、1491年11月11日には、タウングーに近いながらもカボン(Kabaung)川とポンラン(Paunglaung)川の河口にドゥワヤワディー(Dwayawaddy)という新しい要塞都市を建設した。 ミンチーニョはその後すぐに、南方の大国であったハンターワディー王国の即位に干渉し、自身の力を試した。1491年から1492年にかけて、ハンターワディーの新王ビニャー・ラン2世(Binnya Ran II)は、王族の子弟を全て殺し、政権を握った。ミンチーニョはこの混乱に乗じて、ミンカウン2世の許可なしにハンターワディー王国領に部隊を送り込んだ。カウンビャ(Kaungbya)では、シャン族の総督の象に飛び乗り、一騎打ちで斬り殺した。ハンターワディーの対応は迅速で、1495年末、ビニャー・ランは陸海軍合わせて1万6千の軍勢を送り込み、最終的に要塞都市ドゥワヤワッディーを包囲した。タウングー軍はかろうじて生き残ったが、ミンチーニョは残りの生涯、大きな隣国と戦争をすることはなかった。 ミンチーニョの攻撃がアヴァの許可なきものであったにもかかわらず、ミンカウンは、ハンターワディーの攻撃を生き延びたことを理由に、ミンチーニョの称号をマハ・ティリ・ゼヤ・トゥーラに格上げした。ミンカウンには忠実な臣(loyal vassal)の一人だったミンチーニョを擁立する以外に道はほとんどなかった。その見返りとして、タウングー側は1490年代の間、ヤメシンとプロムに対する遠征に参加することになった。
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