アイルランド主席政務官
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 16:13 UTC 版)
「ヘンリー・ラブーシェア (初代トーントン男爵)」の記事における「アイルランド主席政務官」の解説
第1次ラッセル内閣では1846年7月にアイルランド主席政務官(英語版)に任命され、同年9月4日にアイルランド枢密院(英語版)の枢密顧問官に任命された。 ラブーシェアが主席政務官を務めた時期はジャガイモ飢饉が厳しくなった時期と重なり、1846年7月にジャガイモ疫病が再発、さらに同年秋に死者が急増した。しかし、ラブーシェアは先代の内閣が実施した救済策を続け、政策を改善しようとしなかった。1846年10月5日には「ラブーシェア書簡」(Labouchere letter)を発し、飢饉への救済措置を「再生産性のある雇用」(reproductive employment、すなわち公共事業)に限定すべきと説いた。限定する理由は地主が飢饉救済を行うにあたり領地改良も行うよう促進するためであり、具体的な事業として埋め立てや排水設備を挙げたが、最終的な財源を地主としたため、この計画は好評を得られなかった。 1846年12月には庶民院での演説で「救貧院は満員であり、人々は追い払われて死ぬしかなかった」(The workhouses are full and the people are turned away to perish)と状況の悪化を認めたが、1847年1月に救済策の強化を不要だと断じてしまう。また、ダブリン城には各地での熱病エピデミックの報せが続々と届いたが、当初は飢饉が熱病の流行を起こしたことを頑なに認めず、1847年4月になってようやくアイルランド熱病法(Irish Fever Act)の制定を支持した。
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