アイルランド九年戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/04 08:56 UTC 版)
「ヒュー・オニール (第2代ティロン伯)」の記事における「アイルランド九年戦争」の解説
ヒューは、傭兵に頼るよりむしろ人民を武装化させるべきというシェーンの方針に従って、スペインとスコットランドから提供された火縄銃と火薬で立派な軍隊を作りあげた。1595年のコンティブレットの戦い(en)では、イングランド軍を待ち伏せ、総崩れにした、イングランドに衝撃を与えた。ヒューと他のアイルランド族長たちはフェリペ2世に対して、アイルランド王になってくれるよう要請したが、フェリペ2世はそれを断った。 オドンネル一族はかねてからオニール一族の旧敵であった。しかしヒューはそのオドンネル一族の族長レッド・ヒュー・オドンネル(en)。その父ヒュー・オドンネル (en)はシェーンの同盟者かつ敵であった)と同盟を結び、二人してフェリペ2世と連絡を取り合った。しかしその手紙の一部が配達の途中でサー・ウィリアム・ラッセルに奪われた。手紙には、カトリック教会に対してアイルランド人の政治的自由と道徳心の自由を訴え、支持を乞う内容が書かれていた(つまり宗教戦争の色合いもあった)。1596年4月、ヒューはスペインから支援の約束を取り付けたうえで、一転、イングランドに対して忠誠を誓った。現状ではイングランドとの妥協が得策と考えたからである。この方針は成功だった。サー・ジョン・ノリスはヒューをイングランドに連れて行こうとしたが、ヒューは二年間それを延期させ、自国領内にとどまった。 1598年、休戦が決まり、ヒューはエリザベス1世から正式の恩赦を得た。しかし、その2ヶ月後にはヒューは再び戦場にいて、8月10日には、ブラックウォーター川のイエロー・フォードの戦い(en)でイングランド軍を壊滅させ、その戦闘でヘンリー・バゲネルは戦死した。これはアイルランドにおけるイングランド軍の傷手のうちでも最大級のものだった。もし、ヒューがこの戦勝をうまく利用することができたら、アイルランドのイングランド軍を打ち負かすことができたかも知れない。なぜなら、イングランドに対する不満はあちこちで噴出していて、とくに南部ではジェームズ・フィッツトマス・フィッツジェラルドがデズモンド伯の権利を主張していたところだったからである。ヒューの戦場における指揮官としての名声はヨーロッパでも次第に高まりつつあったが、現実的には、外国の干渉が必要で、それはまだヒューには出来なかった。 イエロー・フィールドの戦いの8ヵ月後、新たにアイルランド総督となったエセックス伯ロバート・デヴァルーが17000人の大軍を率いてアイルランドに到着した。しかし、エセックス伯は失敗と敗北を重ね、1599年9月7日、ラガン川(レイガン川)の要塞でヒューと和平交渉をし、エリザベス1世の承認も得ず、独断で休戦を決めてしまった。エセックス伯がお気に入りだったエリザベス1世もこれには失望し、エセックス伯はその後、反逆罪に問われ、武装蜂起にも失敗し、ロンドン塔で処刑された。 一方ヒューはマンスターのアイルランド人指導者たちと協定し、アイルランドのカトリック教徒に反乱への参加を呼びかけた。1600年1月、ヒューはイングランドのマンスター植民地を破壊すると、北部のドネゴール(en)に向かい、そこでスペインからの供給品と、ローマ教皇クレメンス8世からの激励を受け取った。この件では、論争的なイエズス会士ジェームズ・アーチャー(en)のスペイン王宮での名声が効果的に機能していた。 1600年5月、Sir Henry Dowcraを指揮官とするイングランド軍がデリーでヒューたちの背後をつく戦略的急襲を成功させた。一方、新しくアイルランド総督となった第8代マウントジョイ男爵チャールズ・ブロント(エセックス伯の被保護者)がウェストミースからニューリーまで進軍してきたため、ヒューはアーマーまで撤退を余儀なくされた。反乱者の逮捕に対して生死を問わず莫大な懸賞金がかけられた。 1601年10月、のびのびだったスペインの援軍がアイルランドに到着した。しかし、ドン・フアン・デ・アギラが指揮するスペイン軍が占拠したキンセール(en)はヒューのいる北部とは正反対のアイルランドの南の端だった。マウントジョイは南に急ぎ、ヒューとオドオンネルも冬の厳しい寒さの中、軍を二つに分け進軍したが、サー・ジョージ・カルー(en)が守備する領域を抜けなければならず、途中で支持は得ることはできなかった。バンドン(en)で、2つの軍は合流し、スペイン軍を包囲するイングランド軍を攻撃した。イングランド軍は赤痢や厳寒の中の野営で満足に戦える状態ではなかったが、アイルランド軍は包囲されたスペイン軍と十分に連絡を取ることができず、さらにイングランド騎兵の勇敢な突撃に驚き、たちまち分散・撤退してしまった。スペイン軍もイングランドに降伏した。このキンセール包囲(en)戦の敗北でヒューたちが戦争に勝利する可能性はなくなった。 オドンネルはさらなる援助を求め、スペインに渡ったが、まもなくその地で亡くなった(毒殺を疑われた)。ヒューは残った兵を引き連れて再び北に戻ったが、領地を守る一方で、表面上でも赦しを乞う方針に切り替えた。イングランド軍は1601年から1602年にかけてアルスターの作物・家畜を荒廃させ、ヒューの力は致命的に弱まった。1603年のはじめ、エリザベス1世はマウントジョイに反乱貴族との交渉を始めるよう命じ、4月、ヒューはマウントジョイに服従を示した。実はこの年3月にエリザベス1世は崩御していたのだが、マウントジョイは交渉が済むまでそれを伏せていた。
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