家族の問題
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 17:46 UTC 版)
「ジョージ2世 (イギリス王)」の記事における「家族の問題」の解説
ジョージ2世と息子で推定相続人であるプリンス・オブ・ウェールズフレデリック・ルイスの関係は1730年代に悪化した。フレデリックの両親ジョージ2世とキャロラインが渡英したとき、フレデリックはドイツに留め置かれ、以降14年間会うことはなかった。1728年にイングランドに渡ったが、すぐさまに野党の表看板となった。ジョージ2世が1729年、1732年、1735年夏にハノーファーを訪れたとき、イギリスの摂政委員会の委員長にはフレデリックではなくキャロラインを任命した。また、ジョージ2世と義弟のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム1世の対抗によりプロイセンとハノーファーの辺境で緊張が生じ、国境地帯での動員、および2人の間で決闘を行う提案がなされた。フレデリックとフリードリヒ・ヴィルヘルム1世の娘ヴィルヘルミーネの結婚に関する交渉は数年間延びたが、両国とも相手が要求した譲歩に同意せず、結局結婚の提案はお蔵入りとなった。その代わり、フレデリックは1736年4月にオーガスタ・オブ・サクス=ゴータと結婚した。 1736年5月、ジョージ2世は再びハノーファーに帰国したが、今度はイングランドで批判された。セント・ジェームズ宮殿のゲートには「妻と6人の子供を貧困の中(英語版)に残し、いなくなったか家から離れた男」とする風刺的な張り紙が貼られた。12月に天候が荒れ模様になったので、ジョージ2世は戻ろうとしたが嵐に遭い、ロンドンではおぼれて死んだとするうわさが流れた。やがて、ジョージ2世は1737年1月にイングランドに戻ったが、直後に痔核と熱を出して寝込んだ。すると、フレデリックはジョージ2世がもうすぐ死ぬと言い、ジョージ2世は噂を打ち消すために無理して社交イベントに出席した。 フレデリックが議会に王室費の増額を要求すると、口論がおこった。けちで知られたジョージ2世は示談で解決しようとしたが、フレデリックで解決された。議会は反対多数で王室費増額を却下したが、ジョージ2世はウォルポールの勧めで嫌々ながらもフレデリックへの支給を増やした。1737年7月、さらなる事件がおこった。フレデリックは娘の出生にジョージ2世とキャロラインを立会わせないよう、妊娠中の妻を包んで馬車に載せ、真夜中に逃げたのだった。ジョージ2世はフレデリックとその家族を宮廷から追放した。ジョージ1世のジョージ2世に対する仕打ちとほとんど同じであり、ただ1つの違いはフレデリックの子供を取り上げなかったことだけだった。 直後、キャロラインが1737年11月20日(ユリウス暦)に死去した。ジョージ2世は妻の死を深く悲しみ、「その敏感さはそれまで皆もが彼にはその感情がないと考えた」ほどであった。キャロラインは自らの死の床で悲しむ夫に再婚するよう言ったが、ジョージ2世は"Non, j'aurai des maîtresses!"(「いや、愛人をつくる!」)と答えたという。ジョージが結婚のときにはすでに愛人を持っていたことは広く知られており、彼はキャロラインにもそれを知らせた。サフォーク伯爵夫人ヘンリエッタ・ハワード(英語版)はアン女王の治世に夫とともにハノーファーへ移住し、キャロラインの寝室付き女官(英語版)を務めた。彼女はジョージ1世が即位する前からジョージ2世の愛人であり、その関係は1734年11月まで続いた。次の愛人はアマーリエ・ゾフィー・フォン・ヴァルモーデン(後にヤーマス女伯)であり、1736年に生まれた息子ヨハン・ルートヴィヒ・フォン・ヴァルモーデン=ギンボルン(英語版)はジョージ2世との間で生まれた可能性がある。ヨハン・ルートヴィヒはアマーリエが離婚する前に生まれた子供であり、ジョージ2世は公的には彼を認知しなかった。 ジョージ2世はハノーファー選帝侯を兼ねていたので、ハノーファーに滞在してイギリスを留守にする時は、キャロラインが没する1737年までたびたび摂政を務めた。また北アメリカ大陸に13番目の植民地ジョージアが建設されたのもこの時であった。ジョージアの名はジョージ2世にちなんで名づけられたものである。ハノーファーにもゲッティンゲン大学が創設された。
※この「家族の問題」の解説は、「ジョージ2世 (イギリス王)」の解説の一部です。
「家族の問題」を含む「ジョージ2世 (イギリス王)」の記事については、「ジョージ2世 (イギリス王)」の概要を参照ください。
- 家族の問題のページへのリンク